「其の三」
和弥に雫が追いついた時には、既に和弥は校門の前まで辿り着いていた。あの少女はどこかに行ってしまったのか、和弥一人だけだった。
「雫……お前何で……!?」
「ごめんね、でも私、和弥君が心配で……」
和弥は溜息を吐いて見せたが、やはり一人で行くのは心細かったのかどこか嬉しそうな表情を見せる。
「あの女の子は?」
「さあな。途中までは一緒だったけど、学校に着くちょっと前くらいに消えたよ。それより、勤はどうした?」
和弥のその問いに、雫はしばらく答えにくそうに顔をうつむかせたが、やがてどこかぎこちない様子で飛び出してきちゃったから……と答えた。
「ったく……勤の言う通り俺のことなんか放っておけば良いのにな。まあアイツは一応怪我してるし、連れて来ない方が良いっちゃ良いんだろうけど」
頭をポリポリとかきながらそう言った後、和弥は改めて旧校舎のある方角へ視線を向ける。
「……ホントにやるの……?」
「ああ、このままにしとくと危ないからな」
「けど、どうやって弱らせるの……?」
「……問題はそこだよな。普通に殴ったり蹴ったりじゃ勝てそうにねえし……」
少女が言うにはとにかく弱らせば良い、という感じだったがだからと言ってまともにぶつかって勝てるようには思えない。相手は幽霊や妖怪の類で、明らかに和弥達の思う常識の範疇を逸脱している。どれ程の身体能力があるのかはわからないが、二階から一階へ瞬時に移動出来るような存在を相手に、一般人の和弥達が正面から立ち向かえるわけがない。あのマスク女をこのままにしておくのは危険だったが、別段和弥に何かしら策があったわけでもなかった。
「じゃあ、窓や階段から突き落とすっていうのは? その人階段から突き落とされて死んだんだったら、突き落とされることにトラウマみたいな感覚あったりしないかなって……。ちょっと、酷いけど」
「……あんまり気持ちの良いやり方じゃねえけど、効果はありそうだな。問題はどうやって落とすか……」
そう言ってしばらく考えた後、和弥が提案したのは和弥が囮になって窓の傍までマスク女を誘き寄せ、そこを雫が思い切り突き落とす、と言ったものだった。
「む、無理だよ! 私、腕力ないし……何より和弥君が囮なんて……」
「だからって雫に囮をやらせるわけにはいかないだろ」
確かに雫の言う通り、雫の細い腕では人一人を窓から突き落とすことなんて出来ないだろう。それに窓はちょっと殴った程度では割れないような厚めのガラスだ。ぶち抜いて突き落とすにはそれなりに力がいる。かと言って、雫に囮をやらせるわけにはいかないのも事実だった。
「心配してくれるのは嬉しいけど、でも……」
「和弥が囮になって、そこを俺と雫が突き落とせば良いんじゃないかな」
不意に現れてそう言ったのは、和弥の部屋に残っていたハズの勤だった。
「お前、怪我大丈夫なのかよ!?」
「傷は浅い。大したことじゃない、お前らは放っといた方が危ないだろうからな」
「へぇ、どういう風の吹き回しだ?」
「雫を危険な目に遭わせたくない。それだけだ」
冷たくそう言う勤だったが、和弥の方はどこか嬉しそうに表情を緩ませる。
「でも、和弥君が囮なんて……。やっぱり私が――」
「じゃあ君が囮になるっていうのか!? 危険過ぎる、それなら怪我人の俺が囮になった方がまだマシだ!」
声を荒らげる勤に、何か言い返そうとする雫だったが、それは和弥によって制される。
「いや、良い、勤が正しい。怪我人や雫よりも、囮役は俺の方が適任だ。二人はあのマスク女を突き落としてくれ」
雫は、まだどこか納得いかなさそうだったが和弥本人にこう言われては言い返しようもなく、渋々頷いて見せる。
「何故和弥にこだわる……? 俺が囮なら文句はないとでも言うのか?」
「ち、違うよ……そういうわけじゃなくて……! 勤君は怪我してるし……」
「俺が万全なら……それなら、和弥より俺に囮をやって欲しいと思うのか……?」
雫の肩を掴み、真っ直ぐに見つめながらそう言った勤の目はどこか潤んでいる。それを見て雫は顔を背けた後小さくごめんなさい、と呟いた。
「誰にだって……囮なんかやってほしくないよ……。勤君だって、和弥君が怪我したら悲しいハズだよ……?」
「もう良いじゃねえか、囮は俺がやるんだ。それに、お前らがしっかりマスク女を突き落としてくれりゃ俺が怪我するようなこともねえって」
勤が言った通り、現状最も囮に適しているのは和弥だ。それに、和弥としては今回の件に進んで首を突っ込んでしまった責任を少なからず感じてはいる。そのため、一番危険な役は自分が進んでやらなければならないという一種の使命感じみたものも覚えていた。
空気はどこか重たいままだったが、それでも三人は旧校舎を目指して静かに歩いて行った。
旧校舎に到着した和弥達は、旧校舎の二階へ向かうことを決めた。窓から突き落とすのであれば一階からだと明らかに高さが足りないためだ。しかし問題なのはあのマスク女が一階をうろついているかも知れないことだった。
最初に和弥達が旧校舎に入った際は二階で現れたマスク女だが、今度も二階にいるとは限らない。
「……っても、見た感じ一階にはいないんじゃねーか?」
窓から一階の廊下を覗きつつ和弥はそう言ったが、勤は顔をしかめたまま窓を睨みつけている。
「二階から一階に瞬間移動するような相手だ。いつどのタイミングで現れるかわからん」
「だよね……。今は姿が消えてても、私達が中に入った途端現れるかも知れないし……」
そう言って雫は怯えるように自分の両肩を抱いた。
もしあのマスク女が少女の言う通り死人であるならば、生きた人間の条理に当てはめるのは難しいだろう。
「だからってここで考えててもしょうがねぇ。中に入ろう」
二人が頷いたのを確認すると、和弥は先頭に立って旧校舎の中へ入っていく。中に入った途端空気が淀んだような気がして、すぐにでも校舎の外に出たい衝動に駆られてしまう。それでもどうにかこらえて、恐る恐るながらも前へ進んでいく。
「……よし、いないな。二階へ向かおう」
その場にいる全員が、一階で出くわすことをある程度予想していたが、予想に反して一階にマスク女の姿はない。安堵の溜息を吐きつつ階段へ真っ直ぐに向かい、一段目に足をかけた所で、唐突に悪寒が走った。
「――ッ!」
後一歩気づくのが遅ければ、和弥の背中にはナイフが突き刺さっていただろう。隣にいた雫をかばうようにして横に倒れ込んだ和弥の上を一本のナイフが真っ直ぐに飛んでいき、階段にあたってカランと音を立てて落下した。
「う、嘘でしょ……っ!?」
恐る恐る振り向いた雫の後方には、例のマスク女が長い髪を前に垂らしたままその場に立っていた。ナイフは複数持っているのか、マスク女は投擲したハズのナイフを右手に握りしめ、じりじりと和弥達の方へ近づき始める。
「おい、ボケッとしてる場合か、上に逃げるぞ!」
勤の言葉に頷き、雫を立ち上がらせると和弥はすぐに雫の手を引きながら勤と共に階段を駆け上がり始める。その後ろから凄まじい勢いでマスク女が追いかけてくるため、少しも気を抜くことが出来ない。
どうにか二階まで辿り着いたが、その瞬間に和弥達は絶句することになる。
「くそ……そうくるか……!」
先程まで後ろから追いかけていたハズのマスク女が、どういうわけか待ちぶせするような形で二階に立っていた。
「嘘だろ……もうここまで移動したってのかよ!?」
和弥達の後ろにはもうマスク女の姿はない。恐らく、前に二階から一階へ移動したように、今度は一階から二階へ移動したのだろう。
「まずいぞ、ああいう移動が出来るということは……」
すぐに下の階へ逃げる和弥達だったが、当然一階へ辿り着いた時点で、既にマスク女は一階の廊下で和弥達を待ち構えていた。
「……おい、二手に分かれるぞ」
じりじりとにじり寄るマスク女を睨みつけつつ、和弥は小声でそう言った。
「もう一回上まで上ったところで、雫と勤は下に逃げてくれ。俺は上で逃げる」
「そんな、和弥君一人で……! それに上って……」
「俺は元々囮役だからな。上に誘き寄せるのは俺の役目だろ?」
無理に笑って見せてはいるが、和弥とて怯えていないわけではない。だがしかし、ここで誰かが囮にならなければ永遠にこの廊下でマスク女に挟み撃ちにされ続けることになる。そんなことになれば最終的に掴まるのは明白だった。
「大丈夫なのか。マスク女に自分から突っ込んでいくことになるぞ」
「心配してくれンのか?」
ややおどけた様子でそう問うた和弥に、勤はバツの悪そうな表情を見せたが、小さく首肯する。
「まあな。だが俺は最悪の場合雫を逃がすことを最優先するぞ」
「それで良い。そうしてくれ」
いつまでもこうして話し合っている余裕はない。マスク女は今にも飛びかからんばかりの様子で和弥達との距離を縮め始めている。
「アイツだっていつまでも待ってくれるわけじゃない。行くぞ!」
意を決したかのような和弥の言葉を合図に、三人は一気に二階へと駆け上る。当然二階に辿り着いた時点で二階の廊下まで瞬間移動するマスク女を見て、和弥は一気に突っ込んで行く。
「今だッ!」
雫は心配げに和弥の方を見ていたが、半ば強引に勤に連れられて下の階へと降りて行く。それを振り返って確認する暇もないまま、マスク女が振り回すナイフをどうにか転がって回避しながら窓際へと辿り着く。
和弥が立ち上がる隙も与えず、マスク女は和弥との距離を詰めると、容赦なくナイフを振り上げた。
その瞬間、長い黒髪に隠れていたマスク女の目と、和弥の目が合ってしまう。
「……ッ……!」
赤黒く充血した、この世のものとは思えない双眸には直視出来ない程の怨念が湛えられている。生前は美しく艶があったであろう黒髪はバサバサで、その様子がまた彼女を妖怪然とさせてしまう。
あまりの威圧感に思わず震え上がりそうになってしまうが、ここで怯え切ったまま和弥が殺されてしまったのでは無茶をした意味がない。心臓を直接握られるかのような圧迫感に耐えながらも、和弥は振り下ろされるナイフを避けようと身体をひねる。
「……う、が……ァ……!」
しかし、回避し切れないままナイフは和弥の左肩に突き刺さる。
激痛に耐えながらもどうにかマスク女の腕を両手で握り、これ以上深く刺されまいと必死で抵抗するが、左肩からは絶え間なく血が流れ続け、痛みを伴って焦燥感をかき立てた。
「よし、マスク女は上だ……行くぞ!」
一度一階まで降りて、一階にマスク女が移動していないことを確認すると、すぐに勤は階段を上り始める。
「待って、外で封印する人がいなきゃ! 私、外で待ってる!」
「雫ッ!」
勤の返事も待たずに外へ飛び出した雫を、勤は一瞬だけ追いかけようとしたがすぐに階段の方へ視線を戻す。マスク女を落下させて弱らせた後、のんびり三人で外にでて封印するのでは確かに悠長過ぎる。雫の言う通り、誰かが外で待機して落下してきたマスク女をその場ですぐ封じる必要があるだろう。それに今は一刻を争う。今こうしている間にも和弥はマスク女と命がけの攻防をしているのだから、とにかく急ぐべきだった。
勤が急いで階段を駆け上がると、そこには窓際の壁に張り付いた状態で、ナイフを突き刺さんとするマスク女の腕を両手で抑える和弥の姿があった。和弥の左肩は出血しており、シャツの左側は真っ赤に染まってしまっている。
「和弥!」
「勤! 早くしろ!」
和弥の言葉にすぐ頷くと、勤はマスク女目掛けて駆けて行く。それに気がついたマスク女が勤の方を振り返った隙に、和弥は転がるようにしてマスク女の正面から逃れると、勤と共にマスク女の背後へ回り込んだ。
「このまま行くぞ!」
勤がそう言うと同時に、二人は一気にマスク女を窓目掛けて後ろから両手で押して行く。高校生とは言え男二人に強く押されては、マスク女も抵抗し切れない。すぐにマスク女の顔は窓ガラスへ突き付けられる。
「せーーーッ!」
「のッ!」
二人で息を合わせてマスク女の身体を持ち上げ、そのまま一気に窓ガラスへ叩き付ける。すると、マスク女の体重と二人の力に耐え切れず、窓ガラスは音を立てて砕け散った。
その結果、和弥達の作戦通り、マスク女は顔から地面へ真っ逆さまに落下していく。
普通の人間なら即死クラスの衝撃だろう。顔から落下したマスク女は首が折れ曲がり、プルプルと震えながら地面でもがいている。既にそこには雫が待機しており、怯えた様子で落ちてきたマスク女を見つめていた。
「雫、早く!」
上から勤が急かすが、雫は中々札を取り出そうとしない。上から見ている二人にはよく見えないが、落下してマスクの取れたマスク女の口は裂けてなどいなかった。
「に、人間……なのに……!」
マスク女が口裂け女でも何でもない、元々ただの人間だった、というのが雫の恐怖を煽っているのだろう。それだけではない、元々罪のない人間を無理矢理叩き落として今から封じる、という行為そのものにも抵抗がある。
「何を躊躇っている! 放っておくと君が危ないだろう!」
必死に叫ぶ勤の声で、やっとその気になったのか雫は震える手でポケットから千切れた札を取り出すと、ゆっくりとマスク女へとかざす。すると、マスク女は札に吸われるかのようにして姿を消していき、十秒と経たない内にその姿は完全に掻き消えてしまった。
和弥と勤が外へ出て雫の元へ向かった頃には、雫は既にその場にへたり込んでいた。そんな雫の様子を見て、完全に事が終わったのだと理解した二人も、思わず安堵の溜息と共にその場にへたり込む。
「とりあえず終わった……か」
左肩の傷口を抑えながらそう呟いて、和弥は空を見上げる。月こそ満ちてはいないものの、一点の曇りもない晴れた夜空が広がっていた。




