第5話
娘が言った。
「父さん、レモンある?」
唐突で、ぼくは少し笑ってしまった。
家でコーラにレモンを入れたことなんて、ほとんどない。
それでも娘は、当然のように言った。
まるで、そうするのが当たり前だったみたいに。
冷蔵庫の野菜室に、レモンがひとつ転がっていた。
妻が買ってきたのか、誰かが使いかけたのか、よくわからない。
でも、ある。
ぼくはそれを取り出して、まな板の上に置いた。
包丁を入れると、皮がふっと香った。
黄色い匂いが、台所の空気を変える。
輪切りにする。
薄く切る。
切り口が濡れて、光る。
娘はグラスを出してきた。
息子も真似をして、氷を入れる。
氷が鳴る。
乾いた音がして、グラスの底で転がる。
瓶のコーラを注ぐと、泡が立つ。
黒い液体の上に、白い層が一瞬できて、すぐに消える。
その消え方が、あの喫茶店の泡に似ていた。
ぼくは輪切りレモンを、グラスの縁に掛けた。
ただ掛けただけなのに、指が昔の形を思い出す。
何度もやったことがあるみたいに、するりと収まる。
赤いベルベットの椅子。
背の高い足つきのタンブラー。
薄暗い店内。
ドアの鈴がちりんと鳴って、コーヒーの匂いがした。
祖母の笑顔。
ぼくは、祖母の顔をよく覚えている。
でも、あのときの「飲めなかった瞬間」の祖母の顔だけが抜けている。
抜けていることが、ずっと引っかかっていた。
娘がレモンを絞った。
透明な汁が黒い表面に落ちて、匂いが立つ。
息子がその匂いを嗅いで、「なんか大人やな」と言った。
ぼくは笑って、「そうやな」と答えた。
そして、思った。
祖母も、たぶんこういう気持ちだったのかもしれない。
子どもの願いを叶えることは、
いつも成功するわけじゃない。
おいしいと言われるとは限らない。
でも、やってみたかったのだと思う。
一緒に“特別”を作ってみたかったのだと思う。
グラスの縁のレモンは、少しだけずれている。
娘が直して、息子がそれを見て真似をする。
妻が「また凝ってるな」と笑う。
ぼくは瓶をもう一本、冷蔵庫から出した。
祖母の「内緒やで」は、もう秘密じゃない。
家族の中で、手順になっている。
誰かが言葉にしなくても、続いていく。
炭酸の泡がはじけるたびに、
あの日の続きが、いまの食卓の上で静かに弾けている。
ぼくはレモンの匂いを吸い込んで、
喉の奥で、ようやく飲めた気がした。




