第1話
母が栄養士だったせいか、わが家では市販のお菓子や清涼飲料水は一切禁止だった。
スナック菓子も、色のついたジュースも、家の冷蔵庫に並ぶことはない。
けれどその代わりに、母は手を抜かなかった。
クッキーやプリンは手作りで、ジュースは本物の果物を絞ってくれた。
甘さはやさしく、味はまっすぐだった。
母は、いつも優しい人だった。
ぼくは母のことが大好きだった。
だから、ぼくは母に腹を立てたことはない。
むしろ、少し誇らしくさえ思っていた。
――ただひとつを除いて。
コカ・コーラ。
母が最も目の敵にしていた飲み物だ。
コーラのCMが流れるたび、母は決まって言った。
「砂糖の塊や」
「体に悪い」の象徴のように語られていたその黒い液体は、
ぼくにとっては逆に、強烈な魅力を放っていた。
テレビの中で弾ける炭酸。
氷の音。
大人たちが喉を鳴らして飲む姿。
黒くて、しゅわしゅわしていて、
どこか“禁じられた味”の匂いがした。
同居していた祖母は、そんな母の方針とは少しだけ違った。
母に見つからないように、小さな飴やビスケットをそっと手渡してくれる人だった。
「内緒やで」
そう言って笑う顔は、いつも悪戯っぽかった。
それでも、コカ・コーラだけは手を出したことがなかった。
だからこそ、ぼくの中でそれは特別な存在になっていった。
ある日、意を決して祖母に言った。
「コカ・コーラ、飲んでみたいねん」
祖母は一瞬だけ目を丸くして、それからふっと笑った。
「ほな行こか」
そう言って、ぼくの手を引いた。
長い商店街を抜け、小さな喫茶店へ入る。
ドアの鈴がちりんと鳴って、コーヒーの匂いがふっと鼻をくすぐった。
薄暗い店内。赤いベルベットの椅子。
子どものぼくには、少し背伸びをした空間だった。
やがて運ばれてきたのは、
背の高い足つきのタンブラーだった。
氷の上で弾ける細かな泡。
グラスの縁には、薄い輪切りのレモンが一枚、そっと掛けられていた。
白いストローが、まっすぐに立っている。
そのときの祖母の笑顔は、今もはっきり覚えている。
本当にうれしそうだった。
ストローをくわえて、そっと吸い込む。
強烈な甘さと炭酸の刺激。ここまでは想像どおりだった。
けれど、その奥にあった“薬みたいな”独特の風味が、どうしても受け入れられなかった。
一口目は飲み込んだ。
でも、二口目がいけない。
喉が、拒んだ。
結局、ほとんど残したまま店を出た。
祖母は怒らなかった。
何も言わなかった気がする。
でも、そのとき祖母がどんな顔をしていたのか、思い出せない。
もしかしたら――
ぼくは祖母の顔を見れなかったのかもしれない。
自分の憧れが、期待していた味ではなかったこと。
それ以上に、連れてきてくれた祖母の気持ちに応えられなかったこと。
今思えば、あの日ぼくが飲んだのはコーラではなく、
「誰かが自分の願いを叶えようとしてくれる」という味だったのだと思う。
そしてその味は、
炭酸よりもずっと、胸に残っている。
あれから何年も経って、
今のぼくはコカ・コーラが大好きだ。
最初の一口を飲むたびに思い出す。
商店街の先の喫茶店。
赤いベルベットの椅子。
背の高い足つきのタンブラー。
縁に掛けられた輪切りレモン。
そして、あのときの祖母のやさしい笑顔。
炭酸の泡がはじけるたびに、
あの日の続きが、胸の奥で静かに弾けている。




