03元夫のためではない
数年後、聖なる蹄の守護者としてアゼルナート王国になくてはならない存在となっていた。育成した馬たちは王国の各地で活躍して民の生活を豊かにし、平和を守る力となる。
ビスカイとは結局元へ戻ることはなかった。彼は別の場所で、別の人生を歩んでいると聞き、なにを聞こうと彼のことを気にすることはなかった。
思い出すことも皆無。今日も王都の広大な訓練場で、若き騎士たちに馬の育成を指導していた。傍らには風格を増した疾風が、誇らしげに立っている。
王都の一角にある、私邸で朝の光が差し込む庭にて愛馬の疾風のたてがみを丁寧に梳く。そこへ、侍女のミリアが近づいてくる。
「シャーリン様、おはようございます。今日も早いのですね」
「ええ、ミリア。疾風との時間は、私にとって何より大切だから」
微笑む。ミリアは数年前からシャーリンに仕えるようになった、明るく気の利く女性。
「そういえばシャーリン様。今朝方、辺境の領主様から使いの者が来ていましたよ」
「辺境の領主?もしかしてあの村の?」
脳裏にはビスカイと暮らした村の風景が蘇る。
「はい。何でも領主様が直接お会いしたいと」
「そう……分かった。朝食の後、すぐに準備をお願い」
心に、微かなざわめきが走った。辺境の領主の屋敷の一室。そこに座る人物を見て、思わず息をのむ。
「久しぶりだねシャーリン」
そこにいたのは紛れもなくビスカイだった。なんの用か?以前よりも顔が引き締まり、どこか疲れたような表情をしていた。
「ビスカイ……なぜ、あなたがここに?」
声は警戒と戸惑いを帯びていた。
「驚かせてすまない。この度、ひょんなことからこの辺境の領主を任されることになってね」
ビスカイは、苦笑いを浮かべる。
「領主?あなたが?」
信じられない思いだった。剣士として名を馳せたのに、まさか領主になるとは。倫理観が乖離しているのに?浮気に走るのに?
「ああ。魔王討伐の功績が認められて、という名目らしいが正直、おれには向いていない」
ビスカイは自嘲気味に呟く。
「それで、何の用?」
冷たく問いかけた。心の奥底でまだ癒えぬ傷が疼くのを感じる。
「君に、その、た、助けてほしいんだ」
ビスカイは真剣な眼差しでシャーリンを見つめた。
「は?助けて?私が、あなた……を?」
眉をひそめる。よくも言えたものだ。
「ああ。辺境の地は、交易も滞り、魔物の被害も増えている。民は疲弊しているんだ。聖なる蹄の守護者としての、力が必要なんだ」
複雑な感情を覚えた。頼みを聞くべきか、拒絶すべきか。
「王都での仕事がある」
「それは分かっている。だが、君の力なしでは、この地は滅んでしまうかもしれない」
ビスカイは深く頭を下げた姿に、自分と世界を守ろうと必死だった姿を重ねていた。
「もし、協力を引き受けたらあなたはどうするつもり?」
鋭い視線でビスカイを問い詰めた。
「君に過去の過ちを償いたい。この地の民のために君の力を借りたいんだ」
言葉は以前よりもずっと誠実な響きを持っていた。どの口が言うか。切実なんかではない。
「償い、ね。それは私のため?それとも自分の罪悪感のため?」
心の傷を抉るように問いかけた。
「どちらもだ。君を深く傷つけたことは人生の汚点だ。君がいなければこの地は救えない」
ビスカイはまっすぐに目を見つめた瞳には後悔が宿っているように見える。
「ふうん?私に、あなたの言葉を信じろと?」
「信じなくてもいい。ただ、この地の状況を見てほしい。君の力で民を救ってほしい」
ビスカイは懇願するように言った。沈黙する。言葉のどこまでが真実で、どこまでが打算なのか。目の前の困窮している民の姿を想像すると、心は揺らぐ。
「分かった。一度、領地を見て回りましょう。話が真実かどうか、この目で確かめる」
相手の顔に安堵の色が浮かんだ。
「ありがとう、シャーリン。本当に、ありがとう」
ビスカイは心からの感謝を述べる。
その言葉に何も返さず目を閉じてから、その後は疾風に乗り、ビスカイと共に領地内を巡っていた。荒廃した農地、疲弊した村人たちの顔。言葉は決して嘘ではなかったらしい。
「魔物の活動が活発化してから、作物の収穫量が激減した。交易路も危険すぎて、物資が届かないんだ」
ビスカイは荒れた畑を指差しながら説明した。
「王都に援軍を要請しなかったの?」
シャーリンが尋ねる。
「要請はしている。だが、王都も他の地域の魔物対策に手を取られていて、なかなか援軍が来ないのが現状だ」
ビスカイは、悔しそうに顔を歪めた。村人たちの元にも足を運んだ。彼らは、シャーリンと疾風の姿を見て、希望の光を見出したかのように、次々と悩みを打ち明ける。
「シャーリン様、どうか、私達を助けてください」
「このままでは、冬を越せません」
彼らの声に心を痛めた。王国の聖なる蹄の守護者として、見捨てることはできない。
「ビスカイ。民を助けたい。でも、あなたとの関係はこれまでと、変わらないから」
疾風の背から、ビスカイに語りかけた。釘を刺す。
「分かっている。君の気持ちは、無理にどうこうしようとは思わない。ただ、おれは、君の力を借りて、この地を立て直したいんだ」
言葉に小さく頷いた。




