09. 翻訳:矢崎詩音は突然一人ぼっちになった
「匠海さん、助けて!」
私……矢崎詩音は半泣きでスマホの向こうの匠海さんに助けを求めた。
「何事かと思えば」
匠海さんは笑いながら部屋に上げてくれた。
「で、何がわかんないの?」
「英語、だいたい、おおむね、ほとんど」
「はいはい、じゃあ、教科書を最初から見直そうか」
私は英語の教科書とノート、辞書をローテーブルに並べた。
あと一月くらいで期末試験なのに、英語が全然分からない。
赤点を取ると夏休みの間補講になって、匠海さんに会えなくなっちゃうから、それは回避したい。
そういうわけで、私は土曜日の昼間に、匠海さんの部屋にお邪魔していた。
「ていうか、なんで今さら?」
「こないだの小テストで詩音がクラス最下位だった」
「あらら。まずは音読してみ」
「うん、えっと、I can……」
教科書の例文を音読して翻訳。それからその単元の内容を確認して……というのを一学期分全部やっていく。
それを土日かけて何度も繰り返す。
日曜の昼前、何回目かの音読を終えると匠海さんがおやつを出してくれた。
私用に買っておいてくれたらしいものだった。
「単純だけどさ、何度も繰り返すのが結局一番身につくからね。声に出す。繰り返す。他の科目は大丈夫?」
「たぶん、大丈夫……だと思う」
「次の休みは違う科目も持っておいで」
「ごめんなさい」
「いいよ、これくらい。俺も期末前だし、適当に勉強してるからさ。あ、でも次の土曜は夜にバイトだから留守番してて」
匠海さんはさらっと言って、自分の教科書をめくっていた。
留守番?
それって、私がこの部屋に一人でいてもいいってこと?
「それなら匠海さんがバイト行くときに、詩音は寮に帰るよ」
「えー? でも日曜も来るんだろ? 詩音ちゃんに『お帰り』って言ってほしいなあ」
匠海さんは教科書から顔を上げてニヤッと笑った。
それからすぐに苦笑する。
「ごめん、ワガママ言った。一人で待つの嫌だよな」
「えっと、ううん。それはいいけど……匠海さんは自分の部屋に詩音が一人でいても嫌じゃない?」
「全然嫌じゃない。詩音ちゃんが帰りを待っててくれたら、いつもの五倍くらいバイトを頑張れる。早く帰りたくなっちゃうと思うけど」
「わかった。じゃあ、ここで匠海さんが帰ってくるのを待ってる」
「ありがと」
それ、本当は私のセリフなんだけど。
この人は当たり前みたいに私に居場所を用意してくれる。
小崎町の川瀬さんのおうちにも、この匠海さんの部屋にも。
子供っぽい私はすぐ泣きたくなるから、おやつを食べて誤魔化した。
「なんなのさ、その距離感は」
次の土曜もいないって寧々子に話したら、そう言われた。
寧々子はニヤッと笑って私を見つめていた。
「え、なんだろう?」
「よっぽど付き合いの長い彼女でも、一人暮らししてる部屋で留守番ってなかなかないと思うけど」
「そうかなあ」
「そうだよ。それだけ詩音のこと信頼してるんでしょ」
私は寧々子の顔をまじまじと見た。
冗談混じりだけど、それだけじゃなさそう。
匠海さんは、それだけ私のことを信用してくれてるのかな。
「そうかな」
「そう、思えない?」
「うーん。わかんないや。私なんて、匠海さんの妹の友達でしかないから」
「そう思ってるの、詩音だけだと思う」
寧々子は苦笑して手元のスマホに戻った。
私は英語以外の宿題をやることにした。
次の土曜日。昼前に匠海さんが迎えに来てくれて、一緒にバスで匠海さんの部屋に向かった。
途中のスーパーで買い物をしてから、並んで歩いた。
当たり前みたいに手をつないでくれて嬉しいけど、私って匠海さんのなんだっけ? とは思う。
「カフェとか行けたらいいんだけど、給料日前なんだ」
申し訳なさそうな顔をする匠海さんに、私は首を横に振って見せた。
「ううん。私こそ、しょっちゅうお邪魔してごめんなさい。それに、匠海さんの作るごはん好きだから楽しみだよ」
「いーよ。それに今日は俺がおいでって言ったしさ。晩飯どうしよっか。昼飯の時に多めに作る?」
「匠海さんは?」
「バイト中にまかない食うよ。あ、じゃあ帰りに餃子とか炒飯とかテイクアウトできるものもらってくるよ」
「やったあ。それ、匠海さんが作ったやつ?」
「手が空いてればね」
「嬉しい。あ、先にお金渡しとくね」
「別にいいのに」
「ダメだよ。そういうとこで甘えたくない。んー……詩音、ただでさえ匠海さんの負担になってるから」
そう言うと匠海さんは口をへの字にしてしまった。
言いすぎちゃったかなあ。
匠海さんはムスッとした顔で私を覗き込んだ。
「俺は詩音ちゃんのことを負担だなんて思ったことないけど」
「……そうなの?」
「俺が家で待っててって頼んだんだよ。でも、うん。わかった。お金はもらう。俺も仕事でやってるんだし。なあなあにしたら店長に怒られそうだし」
なんとなくつないでいた手を握り直したら、匠海さんも強く握り返してくれて嬉しかった。
部屋についたら一緒に焼きそばを作って食べる。
玉子が入ってて美味しい。
「おいしい」
「そらよかった」
「匠海さんと食べるとおいしいねえ」
「俺も、詩音ちゃんと飯食うとおいしい」
二人で片付けて、やっと勉強を始めた。
でも最初は宿題から。期末試験前だから、宿題がすごく多い。
匠海さんもレポートがいくつかあると言って、ノートパソコンを開いた。
向かい合って、ほとんどしゃべらないで手を動かす。
別に寮とか学校の図書室でもいいのに、匠海さんの顔を見てる方がはかどる気がする。たぶん気のせい。
宿題の後は試験勉強。
英語以外は、少なくとも平均くらいはいけると思うけど、どうかなあ。でも成績悪いと親に連絡行くし、夏休みも遊べない。
それに内部進学して高校の間も寮で生活したいから、あまり成績は落とせない。
今の私の成績は真ん中やや上くらい。
せめて今くらいは維持したい。
顔を上げて匠海さんを見た。
真剣な顔で目を伏せて、キーボードをかたかた叩いていた。
匠海さんは今大学一年生だ。あと三年半はこの部屋にいると思う。
でも、その後はどうするんだろう。
きっと就職して、違うところに引っ越して、私の前からいなくなっちゃう。
あ、ヤバい、想像したら泣きそう。
そしたら私はどうすればいいんだろう。……あ、でも匠海さんが大学を出ると、私は高校三年生だ。一年だけ我慢したら、大学生で、そうなったら私も自分で一人暮らしすればいいんだ。
「ね、匠海さん」
「んー?」
「匠海さんが就職して、詩音が大学生になって、匠海さんに彼女がいなかったら……たまにごはん、一緒に食べてくれる?」
「いきなり、えらい先の話になったなあ」
匠海さんは顔を上げて苦笑した。
「えっと、期末試験で成績悪いと内部進学できなくなるから、ちゃんと勉強してこのまま高校行かなきゃって思ったら、いろいろ考えちゃって」
「ふうん。もちろん、飯くらい一緒に食おう。むしろ俺がお願いしたいくらいだわ。つーか就職かあ。考えたくねえなあ」
「そうなの? 匠海さんって、そういうのちゃんと考えてると思ってた」
意外に思って聞いたら、匠海さんは肩を落とした。
「そのつもりだったんだけどね。んー、先生みたいにいい店で修行して自分の店を持つとか、栄養士の資格を取って給食系に携わるとか、いろいろあってさ」
「なるほど……? 詩音は全然わかんないし、自分がどうするかも決めてないよ」
「中学生っしょ。そんなもんじゃねえかな。俺だって、そうだったよ」
……匠海さんが料理に目覚めたのは、おじいさんの介護がきっかけだったと美海から聞いている。
匠海さんが中学生の時、ご両親の祖父が同時に倒れたそうだ。そのため、ご両親が仕事と介護と手続きに追われ、家のことは匠海さんと当時小学生の美海が担っていたのだと。
夜と夜のお母さんも手伝ってたって、私はあとから聞いた。
そのときに、匠海さんがちゃんとしたごはんを美海に出せなかったから、美海が小柄なんだって匠海さんが今も気にしてることも。
私には、そんな大変な経験はない。
そりゃ、家族からはのけ者で、長期休暇はいつも遠くに追いやられていたけれど、それでも美海と夜がいたからどうにかやってこられた。
今は匠海さんがそばにいるし。
「まあ、今は試験勉強しなさいよ。勉強ができて悪いことなんて一つもねえから」
「うん。あ、これ教えてくれる?」
「どれ? 連立方程式?」
「うん、分数なんだけど」
匠海さんはワークを見て、目を細めた。
その顔に見惚れそうになるけれど、真剣に教えてくれているから、必死に目を逸らして説明を聞いた。
夕方、私はバイトに行く匠海さんを見送った。
鍵を閉めて振り返ると、部屋がなんだか広く感じられた。
あ、ヤバい。今日二回目の「ヤバい」だ。
想像以上に寂しい。慣れ親しんだはずの部屋が、急に知らない場所みたいになって、私はここで一人ぼっちだ。
慌てて部屋に戻って、匠海さんが使ってる毛布を被った。
寝ていよう。起きていたら、たぶん涙が出る。
本当は勉強しなきゃいけないけれど、寂しくて手につかなかった。
ベッドに上がって枕に突っ伏すと、匠海さんの匂いがして、胸が少し落ち着いた。
次に目が覚めたときは、もう夜だった。
ちょうど匠海さんがバイトを終えると言っていた時間だったから、起き上がってシャワーを浴びた。
風呂から上がると、匠海さんから「帰る」と連絡が来ていて、ほっとした。
パジャマを着て、匠海さんの布団を被りながら玄関で参考書をめくった。
しばらくすると、外の廊下から足音がして鍵が動き、匠海さんが帰ってきた。
「ただいま……って、何してるんだよ、そんなところで」
匠海さんは苦笑して、私の隣に座ると靴を脱いだ。
「あのね、思ったより寂しかったから待ってた」
「まさか、ずっと玄関にいたの?」
「ううん。寝てた。さっき起きてシャワー浴びてから、ここに座ってたの。お帰りなさい、匠海さん」
「ただいま。餃子と炒飯と杏仁豆腐買ってきた」
「ありがと」
ビニール袋を受け取って立ち上がった。
袋はテーブルに、布団はベッドに戻しておく。
手を洗った匠海さんが戻ってきたので、いつもは向かい合って座るけれど、今日は並んで座った。
「あー、疲れた。俺もちょっと食うわ」
「一緒に食べよ。いただきます」
「どうぞ、召し上がれ。えっと、杏仁豆腐だけ俺が作った」
「そうなの? 楽しみ」
匠海さんの横にくっついて餃子を食べた。
餃子はまだ少し温かい。炒飯も半分こして、杏仁豆腐は全部私にくれた。
「シャワー浴びてくるから、先に寝てて」
「うん」
頷いたものの、まだ寂しくて起きたまま教科書をめくって待つことにした。
すぐに匠海さんが出てきて、一緒に歯磨きを済ませてからベッドに向かった。
「私、そんなにさみしがりじゃないと思ってたけど、全然そんなことなかった」
匠海さんの腕の中で目を閉じた。胸元に顔を押しつけると、強く抱きしめられて、ようやく胸の寂しさが和らいだ。
「そうなん?」
「うん。匠海さんが帰ってきてくれてよかった」
「ここ、俺の部屋だし」
「そうなんだけどね」
顔を上げて、匠海さんの喉に顔を押しつけた。
「痛いけど」
「ごめん」
謝るけど、止めない。おでこに少し伸びたひげが刺さった。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「ごめんね、置いていって」
「謝らないで。匠海さんはバイトだったんだし。でも、もう留守番はしない。寂しくなるから」
「ごめん」
「いいよ。抱っこしてて。匠海さん、おかえりなさい」
「ただいま、詩音ちゃん」
ぎゅうぎゅうしがみついていてたら、温かくて、寂しくなくて、私はもう一人じゃなかった。
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