第5話 身体の記憶
――身体は動かない。
だけど視界ははっきりしている。
世界が燃えている。
俺は――俺か? ともかく、俺の身体は誰かに抱きしめられている。俺の身体を抱いているのは女の人。今の俺と同じプラチナブロンドの髪を振り乱して、何かから逃げるように必死に走っている。
視界がぶれる。俺の身体は横を向く。地面が迫る。これはどうやら、転んでいるところだろう。鈍い衝撃が身体を襲うも、俺の頭は彼女の手で守られたのか痛くはなかった。
――っ、ごめんね、リーシャ、お母さん、もう走れないの。
女の人は息も絶え絶えに、俺の――俺の身体の目を見つめると――
――っ!
俺の身体は息をのんだ。
次の瞬間、女の人の顔がなくなり、生暖かい液体が、俺の顔にかかった。何、これは。あの見えているのは――? なんでそんなものが見えて……
そして目が合った。口から鮮血を垂らして不気味に笑っているように見える、巨大な狼のような二足歩行の怪物。その歯の間から、長い銀糸が何筋も垂れ下がっている。
笑みを浮かべたまま、その怪物は右腕を振りかぶった。振りかぶる速度と対照的に、ゆっくりと振り下ろされる右腕。いや、ゆっくりではないんだろう。けれども俺の身体の目からは、スローモーションのようにゆっくりと、その腕は迫ってくる。
パチュ、という音が聞こえて視界がぶれた。瞬間、俺の意識は再び真っ暗な闇の中へ消えていった。
◇ ◇ ◇
「わああああぁぁぁ!」
右を見る。豪華な意匠のキャビネット。左を見る。完全ではないものの透明な大きなガラス窓。上を見る、梁に意匠がある純白の天井。下を見る。膨らみかけのまだ小ぶりな双丘――
「じゃない! いや、あってるけど!」
俺の――ああ、いや、エリシェンお嬢様の部屋だ。じゃあさっきのは夢……か。
「おはようございます、お嬢様。ご気分は……すぐれないようですね」
寝汗でぐっしょりとした様を見たのか、アリシェさんは控えるメイド――服装はそのものだけど使用人としか呼ばれていないが――にお湯を沸かしてくるように指示する。
「アリシェさ――」
「呼び捨てで」
二人になった途端に例のクソダサい名前の計画が始まる。どうもまだ意識しないと口調が抜けない。
「あ、はい。その、アリシェ。俺――」
「わたし」
うう……そんな困った子を見るような目をされても。
「エリシェンお嬢様の亡くなったときって、もしかして他にも……いえ、『お母様』もいましたか?」
「…………どこでそれを?」
アリシェさんは顔を強張らす。
「お嬢様、誰がお嬢様にそのことをお伝えしたのですか? 不用意に囀る不届き者がいるのでしたら処理しなければ……」
「アリシェ、ステイステイ!」
何か怖いことを言い出したアリシェさんに、俺はなんとか両手を広げて待ったをかける。
「ステイ、とは何でございましょう、お嬢様」
「あー、いや、気にしないで」
仕方がないので俺は、先ほど見た生々しい夢――今でも首とか腕とかがひしゃげてないか怖くなるほどの――のことをアリシェさんに伝えた。
「そう、ですか。……やはりお嬢様のお身体は、憶えておられるのですね」
アリシェさんは両手をギュッと胸の前で握り、唇を噛んでいた。やはりというか、どうやらというか、あの夢の光景は、エリシェンお嬢様が最期に見た光景のようだ。
彼女の話によると、ル=リヴレ一家を連れての外遊で、魔物の大氾濫に遭遇したらしい。『お父様』が当時の魔王四天王のひとりが侵攻してくるルートの調査に隣国の領主とともに向かい、彼女たちは後方にあるその領主の町に滞在していたらしい。そこを、町のすぐそばの森林から大量の魔物が急襲し、町を廃墟にしたとのことだ。
「旦那様は単身で戻られたそうですが、奥方様のご遺体は見つからず、お嬢様は……っ、お嬢様はっ!」
「アリシェ、もういい。わかった、わかりましたから」
先ほどの記憶と今の証言で大体のことは察せられた。
申し訳ありません、とアリシェさんは居住まいを正した。一呼吸。何事もなかったように立ち上がり、背を向ける。
「……少し、間をおいてからお召し物をお持ちいたします。それまでお休みください」
「……わかった――わかりました」
アリシェさんを見送った俺は、そのままベッドに横たわって目を閉じる。
――もう、絶対に、こんなことにはならないように、必ず、どんなことがあっても治るように……そう……
落ち着いて微睡んできたころ、遠くで『お父様』の声が聞こえたような気がした。