最終話
「実はあなたと会った当初から、こうなるのではないかという予感はしていました」
私を腕の中に抱きしめつつ、アルディス様は悪戯っぽく微笑まれました。
ちなみに私はと言うと、突然の展開についていけず腰を抜かしてしまっています。
だってこんなことありえません。
確かに私はアルディス様に好きだと自分の気持ちをお伝えしましたが、あまりにも身分が違い過ぎる。本来ならば口をきくことことさえ許されないほどの格差が、私達の間にはあるのです。それなのに……。
「ああ、そうだ。まだこれを大事にしてくれていたんですね」
私が呆然としていると、アルディス様はテーブルの上に置いてあるキャンディの小瓶に目を向けられました。それを手に取り、改めて私に握らせます。
「あなたがこのキャンディを宝石のようだと言って喜んで見せてくれた時、正直まずいなと思いました。あなたがあまりに無邪気で可愛らしかったから。私は自分の任務を一瞬忘れ、あなたに見惚れてしまったくらいです」
「そ、そんな……。そんなこと、ありえません」
私は頬を真っ赤に染め、慌ててかぶりを振りました。
だってあの時アルディス様はそんな素振りを微塵もお見せにならなかった。あくまで任務の一環として私に接していたはずです。
「ならばやはりガスクールの加護が働いていたのでしょうね。ポーカーフェイスは得意ですから。あの時私は思いました。あなたはまだ誰も踏み入ったことのない雪原そのものだ、と。真っ白で清らかで、決して踏み入ってはならない聖域。その聖域を決して荒らさない……という自信はありました。何せ私は理性の権化として生まれたのですから」
それからこれは昔の話になりますが……と、アルディス様はお話を続けられます。
「私は生まれた時に占者に予言されているのです。ガスクールの加護が強すぎて、おそらくこの赤子は性欲とは一生無縁だろう。子を為したいという欲を抑圧されてしまうため、一生恋愛できず独身だろう……と。その予言はほぼ当たっています。私はあなたに出会うまで、女性に対し強い衝動や感情を感じたことがありませんでした。だから淫夢の加護を持つあなたに会いに行くことも、全く躊躇いませんでした。他の男は無理でも、私だけは容易にあなたに近づける……。そう高を括っていたのです」
「まぁ……」
「ですがそれが大きな過ちでした」
そこで不意に、アルディス様は私から目を背けました。その頬が心なしか赤く染まってらっしゃいます。
「あなたが王都に来てから間もなくして、私は夢を見るようになりました」
「……夢?」
「……あなたの夢です」
「!」
その一言は、私に大きな衝撃をもたらしました。
まさかアルディス様にまでエウローニャの権能の被害が出ていた?
もしそうならば謝っても謝りきれません。
この広い世界の中でただ一人、アルディス様だけは淫夢の神の影響を受けないと安心していたのに……。
「どうか顔を上げてください。エリス殿、あなたを責めているわけではありません。確かに私も最初は驚きましたし戸惑いました。何せあのような内容の夢を見たのは生まれて初めてで……」
「あのような内容?」
「いえ、あの、それは……。ゴホン、さすがに本人を目の前にして告白する勇気はありません。すいません」
アルディス様はさらに顔を赤く染められ、参ったなと、軽く頭を掻かれました。
その姿がなぜかかわいいと思えるから不思議です。
「それで強く自覚したのです。私はあなたと言う女性に惹かれているのだ……と。ガスクールの加護という枠を飛び越えて、一人の女性を好きになる。そんな自分の感情が信じられず、振り回されたりもしました」
「……」
「そしてエリス殿、あなたは私と一時期距離を置いた時がありましたよね?」
「……はい」
私は素直に頷きました。ちょうどあの頃、私もアルディス様の夢を見るようになり、過剰に意識してしまったのです。
今振り返ってもなんという失礼をしてしまったのかと、自分が情けなくなります。
「あの時、私は寂しいと思いつつも、ほんの少し安堵していました。あなたが私に対して心を開いて下さっているのはわかっていました。ですがそれは単に、話し相手が私しかいなかったから。生まれたばかりの雛が初めて見たものを親だと思い込んでしまうように、あなたもまた刷り込みか何かで私の後を必死についてきている……。そんな気がしていたのです」
「刷り込みだなんてそんな……。そんなことは絶対ありません!」
さすがにこのアルディス様の言い分には、全力で反論しました。
確かに私とまともにお話しできるのはアルディス様だけでした。でも例えまともにお話しできなかったとしても、私はきっとアルディス様のことを好きになっていたでしょう。
なぜならアルディス様の魂の色はとても輝いていらっしゃるから。
これも神の加護の力なのでしょうか。私にはいつだってアルディス様が眩しい存在に思えて仕方ありません。
「……ありがとう。どちらにしろあの頃の私は、あなたとは少し離れていたかった。離れていなければ、あなたと言う雪原を踏み荒らしてしまう。そんな恐怖に震えていたのです」
「………」
私はただただ、アルディス様の告白に耳を傾けました。
私はそんな大それた存在じゃありませんが、こんなにアルディス様が私のことを想っていて下さったとわかれば、やはり嬉しさで胸が喜びでいっぱいになります。
「そしてあなたと気まずくなった後、あのソルーリカ遠征がありました。正直、あの戦いは地獄でした。毎日誰かが死に、見知らぬ土地にたくさんの墓標を立てねばならない日々。そんな中私は、あなたから遠く離れた地にいるというのに、あなたの夢ばかり見ました。しかも、とても醜悪な」
「しゅ、醜悪?」
「あなたを壊してしまう夢です。まるで獣のような……。すいません。これ以上はあなたを怖がらせてしまう」
「……?」
アルディス様は口ごもり、ほんの一瞬だけ会話が途切れました。
ソルーリカの空の下で、私の夢を見たというアルディス様。
まさかそんな遠くまで、私の神の加護の力が届いていたのでしょうか? その答えは、アルディス様の言葉の中にありました。
「私はソルーリカの地で、再び自覚しました。節制と理性の神でさえ制御できないこの感情こそが、あなたに対する恋情なのだと。エリス殿のエウローニャの権能は、私にそれまで知らなかった苦しみを与えました。ですがそれと同時に、私をただの男にもしてくれたのです。私はもうこの感情を知らなかった頃には戻りたくありません。だから今はあなたの神に、心から感謝しています」
アルディス様は私の片手を握り、指先に、ちゅっ、と一つ口づけを落とされました。
軽く啄まれるその感触に、私の肌が粟立ちます。
私は思わず呼吸も忘れ、アルディス様を熱く見つめました。
今、目に映る全てを瞼の裏に焼き付けるように。
今、紡がれる愛の告白を、この先もずっと忘れないように……。
「だからあなたが私を好きだと言ってくれて……嬉しかった。とても嬉しかった。でも先ほども説明したとおり、あなたとまともに話せるのは私だけ。そのためにあなたの選択肢を奪っているのではないかと思いました。あなたを独占できるかもしれない喜びと、そんな自分をずるいと非難する理性、二つが私の中でせめぎ合いました。だから少し、時間が欲しいと言ったのです」
「……そう、だったのですね……」
私の知らないところで、アルディス様はアルディス様で激しく葛藤しておられたようです。
でも別に遠慮なんかせず、独占してくれて構わなかったのに……。
柄にもなく、私は少し拗ねてみせます。
「そんな時、突然あなたがディストラー男爵夫妻に連れ去られてしまった。しかも陛下に望まれ、後宮入りすると言う。あんなに頭に血が上ったのは、生まれて初めてです。もう迷っている暇はない。どれだけ自分勝手でもいい。何としてでもあなたを取り戻さないといけない。そう思いました。そして私はすぐさま同じ志の部下を集め、タザシーナへの亡命の手はずを整えました。すでに父であるグリード伯爵からも許可は得ています。私は私の好きに生きればいい……と、私が選んだ道を肯定してくださいました」
「まぁ、お父様が……」
アルディス様のお父様の立場からすれば、ソルーリカ遠征ですでに二人の御子を亡くされています。
せめてアルディス様にだけは生き残ってほしい。そんな親心も確実にあったのでしょう。
今はただ、今後もこのノグダリアに残るだろうお父様のご無事を祈るしかありません。
「ですからエリス殿、私について来てくださいますか。この国を出れば、私はもう騎士でも伯爵家の三男でもなく、何の身分もない平民となります。今後馴染みのない土地で苦労もかけるかと思います。ですが私はあなたと共に生きていきたい」
「――はい、参ります」
私はアルディス様の申し込みに即答しました。
いつか王都に来てほしいと言われた時と、全く同じです。
私にとってアルディス様はいつだって、暗い道を明るく照らす道標。
そして叶うことなら、私もこの方にとっての光でありたい。
「どこへなりともお連れ下さい。……お慕いしております、アルディス様。多分、初めてお会いした時から」
「エリス殿……!」
震える手を伸ばし、涙で濡れる頬を寄せ合い、私達は強く抱きしめ合いました。
この選択を悔いることは、決してありません。
たとえこの先、命が尽きようとも。
……そして私達は、逃げました。
1000の神が加護すると言われる国――ノグダリアから。
それが神の威光に逆らう大罪だったとしても、私は一向に構わない。
この世界はどこまでも広く、出会えないものの方がとてつもなく多い。
だからこそこの世でただ一人のあなたと出会えたことは、何よりも尊く。
私の全てでした。
この恋だけが、私の全てだったのです――
……それから後のことを、少しお話しますと。
まずは私達の祖国・ノグダリア。
その終焉は、意外にもあっけないものでした。
私を側妃に……と望んでいた王は、私達が国を去った半年後に崩御されたそうです。
死因は――毒殺。なんと正妃様に、毒を盛られたのです。
その動機も至極単純なものでした。王は正妃様の祖国にまで、侵略戦争を仕掛けていたのです。
また長年連れ添った正妃様はとうとう最後まで懐妊せず、側妃ばかりが身籠ったことも暗殺の遠因となったのでしょう。
その後、ノグダリアには多国籍連合軍が攻め込み、王都はあっという間に占拠されました。
こうしてノグダリア王家は途絶え、国は滅びてしまったのです。
今は王都に残られたアルディス様のお父様――グリード伯爵など国に残った重鎮の皆様が多国籍軍との交渉に当たっています。国王が崩御した後に生まれた御子達は皆、平民として育てられると聞きました。
もしかしたらノグダリアはこれからは共和制に移行するかもしれない……。
アルディス様のつぶやきが、今も印象に残っています。
またノグダリア地方からは、時折文が届きます。
『元気にしているか。何か困っていることはないか』――
遠く離れていても、未だグリード家の絆は健在です。
いつか遠い未来、私達もノグダリアに里帰りできる日が来るかもしれません。
「それじゃあチャーリーさんのところに行ってくる。あそこのお婆さんが風邪をひいたらしいんだ」
「はい、気を付けていってらっしゃい、あなた」
そして私達二人と言えば。
ノグダリアから遠く離れたタザシーナのある村で、結婚式を挙げて無事夫婦になりました。
アルディス様は医師の資格をお持ちだったため、今は村医者として、たくさんの人々に慕われています。共に亡命した部下の皆様とは散り散りとなりましたが、皆さんこちらで傭兵になったり商人になったり、元気に暮らしているそうです。
「こけーこっこ、こけーこっこ!」
「ワンワン! ガウウウン!」
「にゃー……」
「はいはい、朝のご飯ね。今用意するから待っててちょうだい」
それから私の大事な家族についてですが。この子達も無事タザシーナへと連れてくることができました。
ディストレー家から逃亡する前に、アルディス様がきちんとこの子達を保護して下さっていたのです。
さすが私の旦那様。
頭が切れます。
かっこいい!
………なんて。
こんな時くらい、ちょっと惚気ても構わないですよね?
「まあまあ、エリスさん。身重の体でそんなに重い物を持ち歩いちゃだめだよ。困ったことがあったら、すぐにあたし達に声をかけな」
「ありがとうございます、スーザンさん」
市場に買い物に行くと、気心知れた村人達が私に優しく声をかけてくれます。
アルディス様の妻と言うことで、みんな私にとても好意的です。
ありがたいことに、私は今、初めての子を妊娠中です。
日々大きくなっていくお腹は、私に絶対的な幸福感を与えてくれます。
何よりも、このタザシーナに辿り着いて起きた一番大きな変化――
それは神の加護が消え去ってしまったことでした。
『神の加護なき土地』は『神の加護が届かない土地』という意味合いもあったのです。
あれほど私とアルディス様を苦しめていた神の権能は、今は跡形もなく。
私はこうして普通に人里で暮らせるようになりました。
生まれてより17年、神の加護に苦しめられていた日々がまるで嘘のよう。
神の加護がいらないなら、神の加護が届かない土地まで移民すればいい。
こんな簡単な解決法を知らずにいたなんて……。
初めてこの事実を知った時、私もアルディス様も思わず顔を見合わせて苦笑してしまいました。
こうして私達は正真正銘、ただの平民になったのです――
「お腹の子は男の子かな? 女の子かな? うーん、そろそろ名前を考えたほうがいいか」
「ふふっ、どちらでも丈夫な子なら私はそれで満足です」
夜。私はベッドの上で編み物をし、アルディス様は私のお腹に耳を当てて寝転がっていました。
あと1ヶ月もすれば、私達にとって初めての子供が生まれます。
今から楽しみで楽しみで仕方ありません。
「でも子供が生まれたら、また長い間エリスを奪われてしまうな。それはそれで少し妬けるかも」
「ふふふ、自分の子供にやきもち焼いてどうするんですか」
まるで少年のように拗ねる夫を、私は笑顔で宥めます。
「はぁ……、そろそろエリスを抱きたい」
「!」
しかもこの旦那様、二人きりなのをいいことに飛んでもないことを言い出します。
私の顔は熟れた果物のように真っ赤になりました。
今や私も一児の母。
子作りを実地で体験し、本当の淫夢がどういうものなのか知ってしまいました。
アルディス様に抱きしめられる夢を見ただけで、キャーキャー騒いでいた過去の自分、あまりにも無知過ぎる……。
返事に困る私を見て、アルディス様はくすくすと笑われました。私の長い髪の毛先を指先でくるくると巻いて、こちらがぞくっとするような艶っぽい視線を投げられます。
「ごめん、冗談。無事子供が産まれてくるまでは、ちゃんと我慢する」
「お、お願いします……」
「でも大丈夫になった時は、覚悟して?」
「!」
にこにこにこ。
初めて会った時のような、まっすぐすぎるアルディス様の笑顔。
この笑顔に私は弱いのです。
お腹の中がムズムズするようなくすぐったさを感じながらも、私はこくんと首を縦に振りました。
「その時はまたよろしく……です」
「こちらこそ」
手と手を伸ばし合って、ぎゅっと強く握れば、温かな体温が伝わります。
私達の祖国は滅びてしまいました。
私達を守ってくれていた神は、いなくなってしまいました。
だけどかけがえのない人が、そばにいます。
かけがえのない運命を、この手でつかみ取りました。
だから……幸せです。
今の私は、とても幸せです。
【完】
ここまでお読みくださりありがとうございました!
連載「悪役未亡人は自分の役目を全うしたい」のほうも、どうぞよろしくお願い致します!