悪魔覚醒
「おいおいおい……こんなことがあるかよ」
クロードが立ち上がった気配に、振り向いたドラフトが驚きの声を上げた。見れば、床に流れていた血の川が綺麗に無くなっている。それが彼の驚きを更に増した。
「てめぇ……本当に人間か?」
クロードの一変した雰囲気も合いまって、ドラフトがたじろいだ。
彼の言葉に、クロードは無言で佇んでいる。俯いて表情が見えないが、不気味な空気を纏っていた。
「……いいぜ、今度こそきっちりと殺してやるよ!」
これ以上の問答は無意味とばかりに、ドラフトが、ナイフを構えて襲い掛かった。が、接近したと思った瞬間、彼の体は物凄い勢いで横に弾き飛ばされた。
「がはっ!」
派手な音を立てて壁が窪み、そこにドラフトがめり込んだ。口からは血が噴き出る。
速すぎて何が起こったのか、誰も分からなかった。ただ、立っているクロードが片手を上げていて、その格好から手の甲で弾き飛ばしたとしか、推測できない。
「図に乗るなよ……人間如きが」
影の落ちたクロードの顏に、赤い目がギラリと光った。
「くっ……上等じゃねぇか!」
ふらつきながらも立ったドラフトが、再び、クロードに向かって行く。
片手のナイフを投げ、自らは空間トンネルに入り、別の角度から襲い掛かる。
投げナイフと、接近攻撃の同時攻撃により、完全に虚を突いた――はずだった。
「くだらん」
クロードは呟くと、身を躱しながら飛んで来たナイフの柄を掴み、もう片方の手でトンネルから出てきたばかりのドラフトの喉元を掴んだ。
まるでトンネルの出口が分かっているかの様な無駄のない動き。そしてそのまま、掴んだナイフをドラフトの肩に突き立てた。
ぎゃっと悲鳴が上がるが、彼の首を掴んだ手に力が籠められると、悲鳴はくぐもった音に変わった。
首を掴んだ状態のまま、空間トンネルから、ドラフトの体が引っこ抜かれると、そのまま吊るす様に持ち上げられた。
まるで、絞め殺される前の鶏の様にジタバタともがく男の顏を、クロードの冷たい目が射抜く。
次の瞬間、ドラフトを頭から地面に叩きつけた。バキバキと床が割れる。
「ふんっ!」
そして止めとばかりに、クロードの足が、ドラフトを胸の真ん中を踏みつけた。
ぐしゃりという鈍い音がし、ドラフトは体の骨を粉砕されて、意識を失った。
「ひ、ひいいいいっ!」
目の前で繰り広げられた蹂躙の光景に、ボルドアが恐れ慄き、背後にある地上への階段の方へと慌てて走り出した。
間違いなく殺される。次は自分だ。そう確信したボルドアは、肉のついた体を揺らして、ばたばたと逃げる。
それを見ていたクロードが、すっと指を縦に振った。すると指の軌道に合わせて、空間に裂け目が入り、それが広がって穴となった。
「どこへ行くつもりだ?」
逃げていたつもりが、気付けば恐ろしい男が目の前にいた。ボルドアは訳が分からず混乱し、無様に悲鳴を上げる。
「うわぁぁぁっ!!」
クロードは空間に穴を開け、ボルドアの首根っこを掴んで引き寄せたのだった。
「たまには嬲られる方になってみるのも一興だろう?」
そう言ってクロードは、ボルドアを殴り飛ばした。
「ひぶっ」
ボルドアが豚の様な悲鳴をあげて跳ね飛ばされ、鉄格子にぶつかった。ガシャンという金属音が響く。歪んだ鉄格子が衝撃の大きさを物語っていた。
しかし、クロードの攻撃はそれでは終わらなかった。
鉄格子を背にぐったりとするボルドアに、つかつかと歩みより、彼の胸ぐらを掴んで持ち上げると、再び彼の顔に拳を叩き込んだ。
「や、やめっ」
バキ
「ゆるして」
バキ バキ
「あ、あが……」
そのまま、何発も何発も拳を打ち込む。ボルドアにはもはや意識はない。
ドカ ドカ グシャ グシャ グシャ
辺りに血が飛び散る。
「やめろ! クロード! もう十分だ!」
メリッサが鉄格子の向こうから叫ぶが、クロードには聞こえていない。
鉄格子の向こうで見える彼の顏は鬼の形相、憤怒の色に染まっていた。
何がそんなに彼を怒らせているのか。
実際、彼は怒っていた。自分を傷つけたドラフト以上に、この醜く肥えた貴族の男に酷く怒りを感じていた。
しかしなぜか、それは彼にも分からなかった。ただ我を忘れる程に、この男に怒っていたのだった。
さらに力を込めて、拳を打ち込むと、ついにはボルドアの胸ぐらは破れ、背にしていた鉄格子は耐えきれずにへしゃげて広がり、ボルドアの体は部屋の奥に吹っ飛んだ。
鉄格子を通り抜け、奥の壁も突き破り、向こうの倉庫までボルドアは飛ばされた。
それでも執拗に追いかけようとするクロードに、メリッサが叫んだ。
「目を覚ませクロード! 何にそんなに怒っているんだ!? クロード!」
渾身の叫びが轟いた。
すると、ぴたりとクロードが止まった。
「ん? 何故……確かに何故我はこんなにも怒っているのだ?」
あれほど怒りに満ちていたはずのクロードから、すうっと怒りが引いてゆき、考えを巡らせ始めた。
メリッサの声が届いたのか、はたまた疑問に思ったこと考えずにいられない性分か、クロードは冷静さを取り戻し、いつもの仏頂面に戻った。
「クロード! 正気に戻ったか!」
「喧しい。そうだ、簡単に攫われる愚図な貴様に怒っていたのだ。まったく」
「え? 私が悪いのか……明らかにそんなレベルの怒りじゃなかった様な……」
「うるさい、貴様に対してだ。そうに決まっている!」
本当は、メリッサを辱しめ、弄ぼうとしたボルドアに憤怒の感情を覚えた。
しかし、メリッサの為に激怒したなど、この時のクロードには認められる訳もなく、それどころか気付きもしていないのだった。
「分かった分かった。すまなかったよ……それよりこの拘束を解いてくれ」
「ちっ、手間のかかる――かはっ」
「どうした!? クロード!」
悪態をつきながら、メリッサの拘束を解こうと彼女に近づいたところで、突然、クロードが吐血し、膝を付いてしまった。
「大丈夫か!?」
「喧しい……はぁはぁ、やはりお前の魔力は、最悪の味だ……かはっ」
いつものメリッサの魔力を使った後の反動だった。体の中から焼かれる様な強烈な痛みが彼を襲う。
今回は初級レベルの身体強化魔法を使っただけだったため、意識を失うほどではなかったかが、その場にしゃがみ込んで動けなくなるほどに消耗していた。
「安心しろ……この部屋に入る前に例のスイッチを入れた。手筈通りならそろそろだ」
クロードの言葉通り、タイミングを合わせた様に、先ほどボルドアが逃げようとした地上に繋がる階段を誰かが降りてきた。
コツコツと足音を立てて、入口に現れたのは、1人の警官だった。制服に身を包み、帽子を深く被って顔が見えない。
「待たせたな、お2人さん!」
「あ、アルか!?」
「なに? お嬢、随分マニアックなプレイしてますね。大人の階段を5段飛ばしくらい」
「ち、違う! それより早く拘束を解いてくれ」
その警官は、アルレッキーノが扮したものだった。いつもの陽気な調子で話しながら、メリッサの拘束をさっさと外してゆく。
「ロゼッタはいいのか?」
「はい、もう出来ることは全て終わりましたからね。あの後、ナフィーサちゃん達が工房に来て、作戦を伝えてくれたんですよ。2人に任せっぱなしって訳にいかないんでね、俺も参加させてもらいやした。屋敷の前まで、ナフィーサちゃんとサイードの旦那が車で来てるんで、急ぎやしょう」
作戦とは、ナフィーサが出まかせで言ったことを実際に起こすというものだった。
つまり、今夜ボルドア邸に武装組織の襲撃があるという情報が警察に流し、メリッサたちが騒ぎを起こし、警官隊を突入させるというものである。
クロードは今まで、屋敷の様々な場所に小さな筒――発煙筒を仕掛けていた。この発煙筒は、スイッチを押すことで、その全てが同時に煙を発する仕掛けだったのである。
そして、スイッチが押され、今、邸宅には治安維持を目的とした警官隊が突入していた。もちろん、本当の目的はボルドアの不法行為の証拠を掴むためであるが。
「サイードの旦那が話を通したおかげで、俺たちは政府の匿名捜査官ってことになってるんで、顔パスで外に出られますぜ」
「よし、シルクタイトを貰ってさっさと脱出しよう。アル、そこの壁の穴から向こうの部屋に行って、シルクタイトを取って来てくれ。私は別の回収対象を見つけたんだ。そっちを回収する」
「ん? まぁ了解しやした」
メリッサは、鉄格子に空いた穴を通り、白目を向いて転がるドラフトに近寄った。彼はぴくりともしないが、生きているようだ。
その様子を確認すると、彼女は彼の両手から手袋を剥ぎ取り、魔道遺産を回収した。
メリッサは、改めて横たわるドラフトを眺める。凄まじい一撃だったな、としみじみ思うが、それよりも――
「お嬢、シルクタイトは手に入れやした。それより、この倉庫の方まで突っ込んでるデブは何です? 顔に原形がなくて、すっげぇ痛そう。なんとか生きてるみたいだけど」
「それがボルドアだ。ちょっとあってな」
いったいクロードは何故あんなにも怒っていたのだろうか。ドラフト以上に、ボルドアに対してその怒りが向いていたが――先ほどのクロードの気持ちを考えてみるも、メリッサには、さっぱり分からなかった。
――でも、もし……
(もし、私の為に怒ってくれていたのなら、嬉しい、かな……)
人知れず、心の中で呟いた。
「よし、撤収だ。アル、クロードに肩を貸してやってくれ」
屋敷を出ると、アルレッキーノの言う通り、街まで乗って来たオフロード車で、ナフィーサとサイードが迎えに来ていた
メリッサ達がその荷台に乗り込むと、車は一気に駆け出し、ボルドア邸を後にした。そして、ロゼッタの待つアブドル老人の工房へと急いだのでだった。
朴念仁な2人だよ~まったく( ̄ー ̄)




