第2話「見えない景色」
※後書きに挿絵があります。
作品のイメージとして添えていますので、よろしければご覧ください。
なお、見なくても物語はお楽しみいただけます。
改札を出ると、むわりとした夜の空気が纏わりついてきた。
藤崎真理は人の流れに沿って歩きながら、肩にかけたバッグの紐を握り直した。満員電車の中でぎゅうぎゅうに押しつぶされていた体が、まだどこかしら強張っている。
ホームから改札、改札から出口。毎日同じ道を、同じ時間に歩く。気づけばそれが当たり前になっていた。
帰り道のコンビニに立ち寄る。これも、毎日のことだった。
冷えたショーケースの前で幕の内弁当を手に取り、レジへ向かう。「温めますか」と聞かれて頷く。店員がお弁当を持ってレンジへ向かう間、真理はぼんやりとカウンターの前に立っていた。
そこへ、カップルが入ってきた。
ふたりは楽しそうに話しながら、棚を回った。お菓子を手に取っては「これどう?」「こっちのにしようよ」と笑い合っている。そのうちのひとりが雑誌コーナーに足を向けて、旅行雑誌を一冊抜き取った。表紙は、南の島の海だった。
真理の視線が、その表紙に止まった。
昔、友人と沖縄へ行ったことがある。空港で集合して、荷物を引きずりながら笑って、砂浜で写真を撮りすぎて。恋人と京都へ行ったことも。古い街並みを並んで歩いて、夕焼けに染まる川を眺めた。
あの頃はまだ、旅行雑誌を見ながら次はどこへ行こうかと考える時間があった。
カップルがレジに並ぶ。お菓子と飲み物と、雑誌をカウンターに並べた。ふたりが笑い声を上げている。
「お待たせしました」
店員の声で、我に返った。温められたお弁当の入った袋を受け取り、レジを離れた。
コンビニを出ようと自動ドアをくぐった先は、知らない山道だった。
真理は足を止めた。振り返ると、コンビニはなかった。街灯もない。アスファルトも、マンションも、何もない。あるのは、夜の木々と、頭上の星だけだった。
「……え」
思わず声が出た。スマホを取り出しても、電波は入らない。どこから来たのかも、どこへ向かえばいいのかも、わからなかった。
途方に暮れたまま立っていると、木々の間にぼんやりとした光が見えた。なんとなく、そちらへ向かった。
近づくにつれ、それが行灯だとわかった。石畳の小道が現れ、両脇に行灯が並んでいる。その先に、木造の建物が静かに佇んでいた。玄関の軒先で、一匹の黒猫がこちらを見ていた。行灯の光に、その目が金色に光る。
引き戸がすっと開いた。
「月影楼へようこそ。お疲れ様でございました」
若い女性が立っていた。あのカップルと同じくらいだろうか。薄紫の着物に、長い黒髪。穏やかに微笑んでいた。
「……月影楼、ですか?」
「はい」と彼女は答えた。
「帰れない夜に、たどり着く場所です」
帰れない夜──。
真理は少しの間、その言葉を頭の中で転がした。家に帰って、お弁当を食べて、シャワーを浴びて寝る。明日は休みだ。けれどそれだけのことが、なぜだか今夜は億劫だった。
「……少しだけ、休めれば」
そう言いながら、中へ入った。
彼女は、若女将の小夜です。と名乗ってくれた。
彼女に案内された廊下は、やたらと長く感じた。足元の板張りが軋む。行灯の光が揺れる。外の世界とは別の時間が流れているような、静かな廊下だった。
通された部屋に入ると、若女将が「ごゆっくりどうぞ。ご夕食のご準備が整いましたら、お部屋にまいります」と言って、障子を閉めた。
真理はバッグをその場に下ろすと、畳の上に倒れ込んだ。天井を見上げて、ひとつ息を吐く。体が、ずしりと重かった。
しばらくそのままでいてから、体を起こして部屋を見渡した。
こぢんまりとした部屋だった。畳は新しくはないが、きれいに手入れされている。床の間には一輪の白い花。壁には額縁に入った風景写真が何枚かかかっていた。山の稜線、川霧の朝、夕暮れの海。どれも、息を飲むような景色だった。
棚に目を向けると、写真集や観光雑誌が何冊も並んでいた。手を伸ばして一冊引き抜くと、北欧の旅を特集したものだった。フィンランドのオーロラ、デンマークの街並み、ノルウェーの峡湾。いつか行きたいと思ったまま、何年も経っている。
隣の写真集には国内の名所が載っていた。行ったことのある場所が何か所かあった。奈良の、あの大きな池。長崎の、丘の上の教会。どれも、もう随分前のことだ。
文机の上には、和紙に包まれた菓子が置かれていた。開いてみると、小さな金平糖がいくつも入っている。桃色、水色、黄色、白。色とりどりで、思わず見入ってしまった。月花糖、と小さな帯に書いてあった。
「……変な宿だな」
呟きながら、また一冊手に取った。
夕食は、部屋に運ばれてきた。
豪勢ではなかった。だが、白い器に丁寧に盛られた料理には、どこかここの土地の匂いがした。山の青菜、魚の煮付け、香の物。コンビニのお弁当とは全然違う、でもそれよりずっと落ち着く味だった。
食べながら、ふと気がついた。ちゃんと座って、ちゃんとした食事をしている。それだけのことが、なんだか久しぶりだった。
食事が終わると、若女将がお茶を持ってきた。
向かいに座り、そっとお茶を差し出してくれる。真理はそれを受け取って、湯呑みを見つめた。湯気がゆっくりと立ち上る。
「……今日は雲ひとつない夜ですね」と若女将が言った。
「庭園をご覧になりませんか?」
促されるまま障子を開けると、縁側の向こうに庭が広がっていた。
真理は思わず、息を呑んだ。
池の水面に、月が映っていた。満月に近い、丸い月だ。風が吹くたびに水面が揺れて、月の輪郭が崩れては、また静かに戻ってくる。
池の縁には石灯籠が置かれ、行灯の光と月明かりが混ざり合って、庭全体をやわらかく照らしていた。木々の葉が風に揺れるたびに、光と影が入れ替わる。
いつまでも、見ていられるような気がした。
「──綺麗ですね」
気づいたら、口から出ていた。
しばらくして、真理は言った。視線はまっすぐ、池の水面へ向けたまま。
「……昔はもっと、旅行して、色々な景色を見るのが好きだったんです」
若女将は何も言わなかった。ただ、静かにそこにいた。
「……今は?」
少しして、そう聞いた。
真理は少し間を置いた。
「景色を見る余裕なんて、なくなってました」
言葉にすると、なんだかひどく遠い話のように聞こえた。自分のことなのに。
ふたりはしばらく、並んで庭を眺めていた。虫の声と、水の音だけが続いた。
翌朝目が覚めると、自室のベッドにいた。
カーテン越しに光が漏れている。もうすっかり朝だった。
夢でも見たのだろうか。疲れていたから、変な夢を見たのかもしれない。
なんとなく机に目を向けると、コンビニの袋があった。中には、すっかり冷めきったお弁当が入っていた。そのままにして寝てしまったらしい。
──よく見るとまだ何か入っている。取り出してみると、和紙に包まれた月花糖だった。あの、カラフルな金平糖。
「……夢じゃなかったのかな」
少し不思議に思いながら、それを手のひらの上に乗せた。
月影楼での一夜が、ゆっくりと蘇ってくる。庭の池、月の光、若女将のお茶。
ひと呼吸置いて、窓へ向かった。カーテンを開けると、朝の光が差し込んできた。いつもと変わらない、住み慣れた街の景色。
でも、なんだか綺麗だな、と少し思えた。
また行きたいな。
そう思いながら、月花糖を丁寧に机の上に戻した。




