第1話「帰れない夜」
※後書きに挿絵があります。
作品のイメージとして添えていますので、よろしければご覧ください。
なお、見なくても物語はお楽しみいただけます。
今日も、終電だった。
山田悠斗は改札を抜けながら、スマートフォンの画面を閉じた。未読のメッセージが十数件。件名を見るだけで胃が重くなるものばかりで、返信は明日でいいと自分に言い聞かせた。
社会人になって三年が経つ。残業は当たり前で、定時に退社した記憶がいつだったか思い出せない。上司の川島は、気分次第で指示が変わる人間だった。昨日「この方向で進めろ」と言ったことを、今日になって「なぜそうした」と詰める。反論すれば「言い訳をするな」と言われ、黙っていれば「やる気があるのか」と言われる。どうすれば正解なのか、悠斗にはもうわからなかった。
ホームへ続く階段を下りると、ちょうど電車が滑り込んでくるところだった。蛍光灯の明かりが白く浮かび上がり、疲れた顔の乗客たちが窓の向こうに並んでいる。
ドアが開く。
悠斗は足を踏み出そうとして、ふと立ち止まった。
――帰りたくない。
言葉にしたわけではなかった。ただ、そう思った。家に帰れば、また明日が来る。明日が来れば、また会社へ行く。それだけのことが、今夜はひどく遠く感じた。
次の瞬間、踏み込んだ足の下にあったのは、電車の床ではなかった。
土の感触だった。
悠斗は反射的に周りを見渡した。ホームも、電車も、乗客たちも、どこにもない。あるのは暗い山道と、頭上に広がる夜空だけだった。虫の声がどこか遠くから聞こえている。
「は……?」
スマートフォンを取り出すと、電波は圏外。地図アプリを開いても、現在地を示すアイコンがぐるぐると回り続けるだけで、一向に止まらなかった。
途方に暮れたまま立っていると、木々の間からぼんやりとした橙色の光が見えた。
行灯だった。
吸い寄せられるように近づいていくと、石畳の小道が現れた。両脇に小さな行灯が並び、奥へ奥へと続いている。そしてその先に、木造の建物が静かに佇んでいた。
玄関の軒先に、一匹の黒猫がいた。悠斗が近づいても逃げるでも威嚇するでもなく、ただじっとこちらを見ている。その目が、行灯の光を受けて金色に光った。
「……なんだここ」
呟いた瞬間、引き戸がすっと開いた。
「月影楼へようこそ。お疲れ様でございました」
現れたのは、若い女性だった。薄紫の着物を纏い、長い黒髪に花の飾りをつけている。落ち着いた声で、穏やかに微笑んでいた。
「あ、僕は宿泊客じゃなくて……」
「大丈夫ですよ」と彼女は言った。急かすでもなく、怪しむでもなく、ただ静かに。
「良ければ、一晩泊まっていってください」
「いや、結構です。駅に行かないといけないので……」
そう言いながらスマホに目を落とすと、依然として電波は圏外だった。地図アプリの現在地は、まだぐるぐると回り続けている。
悠斗は少しの間、画面を見つめた。
「……すみません、泊まっていきます」
「では、お部屋までご案内いたします」
彼女は丁寧に頭を下げた。
彼女は若女将で、小夜と名乗った。
彼女に案内された廊下は、静かだった。外の喧騒とは切り離されたような、深い静けさだった。足元の板張りが、歩くたびにかすかに軋む。行灯の光が壁に揺れて、橙色の影を作っていた。
通された部屋は、こじんまりとしていた。畳の上に布団が敷かれ、障子の向こうに庭が見える。天井が低く、それがかえって落ち着いた。
部屋の隅には小さな文机があり、その上に和紙に包まれたお茶菓子が置かれていた。そっと開いてみると、三日月の形をした白い焼き菓子がひとつ。月花糖、と小さな帯に書いてあった。
棚に目を向けると、数冊の本が並んでいる。何気なく背表紙を読んで、悠斗は思わず手を止めた。自分が学生の頃に熱中して読んでいた漫画だった。
「……そういえば最新巻、発売されたんだっけ」
手に取ると、まさにその最新巻だった。いつ買おうと思いながら、ずっと後回しにしていた。
「ごゆっくりどうぞ。ご夕食のご準備が整いましたら、お部屋にまいります」
若女将の声がして、静かに障子が閉まった。
悠斗はしばらく漫画を手に持ったまま、部屋の中を見渡した。床の間には一輪の花。窓の外には、行灯の灯りに照らされた庭が見えた。小さな池があって、水面が夜風に揺れている。
不思議と、息ができる気がした。
夕食は、部屋に運ばれてきた。
豪勢ではなかった。だが、白い器に丁寧に盛られた料理を見たとき、悠斗はなぜだか胸が詰まるような感覚を覚えた。いつもの夜は、コンビニの袋を開けて、パソコンの前で食べていた。温かいものを、ちゃんと座って食べる。それだけのことが、こんなに久しぶりだったのかと思った。
一口食べると、体の奥から何かがほぐれるような感じがした。味が染みる、というより、心に届く、という感じだった。出汁の香りが鼻を抜けて、思っていたより涙腺が緩んだ。
「……うまい」
誰に言うでもなく、呟いた。
食事が終わると、若女将がお茶を持ってきた。
「よろしければ、庭をご覧になりますか」
障子を開けると、縁側の向こうに庭が広がっていた。池の水面に月が映っている。風が吹くたびに揺れて、月の形が崩れてはまた元に戻る。
悠斗は縁側に腰を下ろした。若女将がそっと隣に座り、お茶を一杯、手渡してくれた。
「ここって……一体なんなんですか、この宿」
「月影楼と言います」
そのまま彼女は、言葉を続けた。
「帰れない夜に、たどり着く場所です」
帰れない夜――その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
しばらく、ふたりとも黙っていた。虫の声と、水の音だけが続く。
「……帰りたくないな」
気づいたら、口から出ていた。会社のことでも、上司のことでも、何かを整理しようとしたわけではなかった。ただ、そう思った。
若女将は少しの間、池の水面を眺めていた。それから、静かに言った。
「そう思う夜も、ありますよ」
責めるでもなく、励ますでもなかった。ただそれだけ。でも、その言葉が妙に、楽だった。
翌朝目が覚めると、悠斗は自分の部屋にいた。
見慣れた天井。見慣れた壁。窓から差し込む朝の光。
夢でも見ていたのだろうか。あまりにも疲れていたから、変な夢を見たのかもしれない。
スマートフォンに手を伸ばすと、画面に通知が並んでいた。会社からのメッセージが十件以上。川島からのものも混じっていた。少し、嫌な顔をした。
画面を伏せて、何となく机の上に目を向けた。
和紙に包まれた、月花糖があった。
三日月の形をした、あの白い菓子。
「……夢じゃなかったんだ」
しばらく、それを見つめていた。
それから、ゆっくり息を吐いた。
――今度の休みに、最新巻買うかな。
そう思いながら、起き上がった。




