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もう1つのロストテクノロジー  作者: 維岡 真
第4章 優しさの接点
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封鎖と報告線

位相整流室が、いちばん静かな瞬間は「事故の直後」だ。


機械は動いているのに、誰も喋れない。

呼吸の音だけが、白い壁にぶつかって返ってくる。


志乃は椅子の縁に崩れたまま、肺の中に刺さる空気を一口ずつ飲んだ。

吸うたびに胸の奥の席が重い。重いのに、どこかが欠けている。


腰が、まだ軋む。

軋みは痛みに変わらず、痛みにならないまま、身体の芯に残る。


医療監督の手が頬に触れた。


「志乃さん。聞こえますか。ここ、分かりますか」


志乃はうなずこうとして、首が動かない。

動かすと“戻そう”とする力が勝手に入る。

勝手に入る力が、また軋みになる。


「……分かります」


声は出た。喉が焼けている。


医療監督がすぐに言う。


「今から鎮静は入れない。波形に触れる。代わりに、体の拘縮を解く処置だけ入れる。――三条さん、解除はゼロ。固定だけです」


三条の返事は短い。


「了解」


その短さに、決めた硬さがある。

硬いまま、今度は迷いが混ざっている。


監査の男が、数歩離れた場所で淡々と告げた。


「手順逸脱、重大。以後この区画は監査室管理下に置く。ログは提出。口頭報告は後でいい」


制御主任が反射で言い返す。


「いま人が倒れてるんですよ!」


「だからだ」監査の男は声色を変えない。「“患者”を盾に運用変更が行われた。危険だ」


患者。

その言葉が、志乃の耳にもう一度刺さる。


三条が一歩前に出た。


「盾にしたのは上だ。志乃を“装置”として扱ってきたのは、あなた方だ」


監査の男が眉を動かす。


「感情論はいらない。――封鎖する」


封鎖。


扉のロック音が、遠くで小さく鳴った。

白い部屋から、さらに白い箱へ閉じ込められる音だった。


搬送。


志乃はストレッチャーの天井を見上げながら、思考だけが遅れて追い付いてくるのを感じた。


白い部屋。

紙の匂い。

「戻して」という声。


そして、青年。


青年の目が、こちらを見た感触だけが残っている。

見た目ではない。触れられた、という感触。


(入口じゃない。本文……)


意味は分からないのに、言葉だけが沈殿している。


志乃は目を閉じた。閉じると、また紙の匂いが来る気がして、すぐ開けた。


開けたところで、天井は同じ白だった。


医療監督が小声で言う。


「志乃さん、“今ここ”を言えますか。日付、場所、自分の名前」


綾崎志乃。

綾崎志乃。


声に出さず、心の中で繰り返す。

言葉は崩れない。けれど、手触りが薄い。


「……綾崎志乃。整流室……いえ、医療区画に……」


「日付は」


志乃は一拍迷って、迷いを飲み込んだ。


「……今日」


医療監督が視線を三条へ投げる。

三条は、視線を返さない。返せない。


その頃。


学院の古い端末が、短い警告音を鳴らした。


西野は椅子から立ち上がるより先に画面に顔を寄せた。

画面の白地に、黒い文。


保護区画:緊急事象発生

基準位相:間欠維持(改訂)中断

志乃:意識レベル低下(回復傾向)

区画:監査封鎖

追記:解除隙における「参照主体の入替」を疑う


西野の喉が鳴った。


「入替って……何だよ」


古本は横に立ったまま、画面の最下行だけを見た。

表情が動かない代わりに、瞬きが一度だけ増えた。


「“誰が”基準を握っているかが、揺れたってことだ」


「誰が、って……志乃以外にいないだろ」


古本は否定しない。だが言い直す。


「いない、はずだ。なのにログがそう書いた。現場が、そう感じた。だから重大」


西野は拳を握りかけて、開いた。

握る力が、いまは嫌な連想を連れてくる。


「監査封鎖って、会えないってことか」


「会えない」古本は即答した。「行っても追い返される。逆に上へ口実を与える」


西野が歯を食いしばる。


「じゃあ俺たちは何もできないのかよ」


古本は、端末の横に置いた紙束を引き寄せた。

改訂案の次のページ。そこに、別の見取り図がある。


「できることはある。封鎖は“情報線”を絞る。でも絞られた情報線は、逆にどこが握ってるかが見える」


西野は古本を見る。


古本は淡々と続ける。


「監査が封鎖したなら、上はこの事象を“志乃の異常”として処理したい。参照主体の入替――これが公になれば、上の責任が問われる。だから消したがる」


西野の目が細くなる。


「消される前に、こっちで固めろってことか」


古本が頷く。


「ログの複製は取れてないはずだ。封鎖が早い。だが、整流室は複数系統で記録する。医療監督側にも記録が残る可能性が高い」


「医療監督に連絡?」


「直接は危険。監査が張ってる」古本は言い切った。「学院経由の“照会”に落とす。形式は統計研究。中身は、ログの一行を救う」


西野は、口の中が苦い。


「また名目かよ」


「都市では名目が弾だ」古本は紙にペンを走らせた。「志乃を守るための弾」


同時刻。


上層の会議室は、窓がない。

霊気灯の安定だけが、都市の健康診断だった。


監査室の男が報告する。


「間欠維持の運用中に、被験者が意識低下。解除窓の超過、歪み兆候の急増。ログに『参照主体の入替』疑いの記載」


役員のひとりが眉を寄せる。


「入替、とは何だ。第三の位相の侵入か」


「検出は不能でした」監査が答える。「ただし、兆候は一致します」


別の役員が机を指で叩いた。


「検出不能のものを、どう対策する。結局、基準位相を“固定”に戻せばいい」


監査が頷きかける。


「固定なら解除隙は消える。外の再侵入は抑えられる」


三条の名は、その場にない。

その代わり、“撤回権”という単語だけが議事録に浮く。


役員が言う。


「撤回権の運用を見直せ。医療措置などという抜け道は危険だ。次からは上層承認を必須にする」


別の役員が呟く。


「――“本人の意思”が邪魔だな」


その言葉が、会議室の空気を少しだけ冷やした。


医療区画。


志乃は点滴の管を見つめていた。透明な液が、一定の速さで落ちていく。

一定、という言葉が嫌で、視線を逸らした。


医療監督が椅子を引き寄せて座る。


「志乃さん。戻ってこれました。今は休ませます」


休む。

休むと固定が進む気がして、志乃は反射で首を振りそうになった。


その動きが腰に響いて、きし、と軋む。

志乃は息を吸って、吐いた。吐く息が震えた。震えを整えないように気をつける。


医療監督が続ける。


「一つ確認。解除の瞬間、何か“入った”感じはありましたか」


志乃の喉が鳴る。


「……声が」


医療監督がペンを止める。


「声?」


志乃は正直に言うのが怖かった。

正直に言えば、都市はそれを“症状”として切り分ける。切り分けられたら、守るために隔離される。


でも、嘘をつけば、同じことが繰り返される。


「女の声です。『戻して』って」


医療監督の目がわずかに細くなる。

医学の目ではない。記録の目だ。


「それ以外は」


志乃は一拍、迷い、言った。


「……青年を、一瞬だけ。白い部屋で。目だけ、はっきり」


三条が部屋の隅で、息を止めたのが分かった。

止めた息が、彼の中で硬い音になる。


医療監督は声を低くした。


「今の話は、ここに留めます。監査には出しません。――ただし、ログに『参照主体の入替』が残った以上、あなたの“内側”は政治になります」


政治。


その単語が、志乃の胃の底を冷たくした。


「……私、どうなるんですか」


医療監督は即答しない。

即答しない沈黙が、答えだった。


三条がその沈黙を切る。


「俺が決めさせない。上に決めさせない。――志乃、お前が決める」


志乃はその言葉に安心しかけて、すぐ怖くなった。

決める、という行為が、もう身体に負荷になる。


決めるたびに微修正をする。

微修正が積む。積んだ先に限界がある。


志乃は目を閉じた。


閉じたまぶたの裏に、また紙の匂いが触れた気がした。

触れただけで、胸の奥の席が一拍だけ――勝手に応えそうになる。


志乃は息を止め、止めるのをやめ、ゆっくり吐いた。


(ここは入口じゃない。本文だ)


青年の目の感触だけが、まだ残っている。


封鎖された区画の外で、誰かが「報告線」を握ろうとしている。

その線の先にいるのが、外なのか、上なのか、それとも――もっと近い何かなのか。


志乃は、まだ分からないまま、軋む身体で目を開けた。

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