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もう1つのロストテクノロジー  作者: 維岡 真
第3章 混沌と狂気

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基準の呼吸

朝の白い廊下を歩きながら、志乃は自分の名前を心の中で繰り返した。


綾崎志乃。

綾崎志乃。

綾崎志乃。


言葉は崩れない。

でも、言葉の“手触り”が少しずつ薄くなる。


胸の奥の席は、相変わらず動かない。

基準位相が、身体の中に「当然」として居座っている。


(今日中に決めろ)


三条の声が、頭の中で繰り返される。


固定を続ければ都市は守れる。

間欠に落とせば、自分が守れる。


どちらも守りたいのに、同時には選べない。


保護区画・面会室。


三条は「短時間」とだけ言って、監督官付きの映像通話を用意していた。

志乃の前に置かれた端末が点灯する。


西野の顔が映る。眠れていない目だ。


「……志乃」


志乃は笑おうとして、うまくいかなかった。


「ごめん。急に呼んで」


「謝るな」


西野が即答する。声が荒くならないように押し殺している。


古本も画面の端に入った。いつも通り落ち着いているが、目だけが鋭い。


「今、決めろと言われてるんだな」


古本が言った。


志乃は頷く。


「固定のまま続けるか、間欠にするか」


西野が前のめりになる。


「間欠にしろ。お前が壊れたら意味ないだろ」


古本は即答しない。少しだけ間を置いて言う。


「間欠にすると、都市の参照が揺れる。揺れれば、外が入り直す余地ができるかもしれない」


志乃は息を飲む。


「じゃあ……固定?」


古本は首を振った。


「固定は、志乃の参照が削れる。削れたら戻せない可能性がある。――どっちも毒だ」


西野が苛立ちを滲ませる。


「じゃあどうしろってんだよ」


古本は淡々と言う。


「“呼吸”にする」


志乃が瞬く。


「呼吸?」


「固定か解除か、二択にしない。短い間欠を繰り返す。固定を維持しつつ、負荷だけ逃がす」


古本の言葉はいつも通り数字の言葉だった。


「完全に外すと外が入る。完全に固定すると志乃が削れる。なら、間を作る。周期じゃなく、乱数で」


西野が言う。


「そんなの、できんのか」


古本は志乃を見た。


「志乃なら、できる可能性がある。基準位相が“席”なら、座り続けるんじゃなくて、姿勢を変える。座り直す」


志乃の胸の奥が、微かに波打つ。


“座り直す”。


それは逃げでも勝利でもない。

生き残るための調整だ。


監督官が「時間です」と言い、通話が切れる。


画面が黒くなる直前、西野が早口で言った。


「戻ってこいとか言わねえ。今は、壊れんな。頼む」


その一言が、志乃の中で重さになった。


面会室を出ると、三条が廊下で待っていた。


「聞けたな」


志乃は頷いた。


三条は先を促さない。珍しく、待つ。


志乃は息を吸う。


「……間欠にしたいです」


三条の表情は変わらない。だが返事が早い。


「理由」


志乃は、迷わず言った。


「このまま固定を続けたら、私が私じゃなくなる気がする。もう混ざってる。戻れなくなる」


三条が一度だけ頷く。


「都市は?」


志乃は目を伏せる。


「揺れるかもしれない。誰かが倒れるかもしれない。怖いです」


三条はそこで、淡々と言った。


「怖いのは正しい。だから手順を作る。揺らすなら、最小で、短く、制御して揺らす」


志乃は顔を上げる。


「上は……許しませんよね」


「許さない」


三条は即答した。


「だから“方針変更”じゃなく、“医療措置”として入れる。負荷軽減。緊急処置。名目は作る」


名目。

都市の言葉。


三条が続ける。


「志乃、お前は撤回権を持ってる。上の書類にもある。――それを使う」


志乃の胸が詰まる。


撤回権は、守りの言葉のはずだった。

でも今は、戦いの言葉になっている。


位相整流室。


医療監督が立ち会い、抑制環の限界値が微調整される。

モニターには、新しい手順名が表示された。


基準位相:間欠維持(試行)

方式:短時間解除+再固定(乱数)

目的:参照侵蝕の抑制

注意:外部参照再侵入リスク


制御主任が渋い顔で言う。


「上層の承認は取っていない」


三条が言い切る。


「医療監督の判断で通す。責任は俺が持つ」


言いながら、三条の声は揺れない。

揺れないのが怖い。決めている声だ。


志乃は椅子に座り、目を閉じた。


(基準の呼吸)


固定を外す。

短く。

戻す。

乱数。癖にしない。


カウントが出る。


3。

2。

1。


固定が、わずかに緩む。


胸の奥の席が、一瞬だけ浮く。


その瞬間、息が吸えた。

深く吸える。久しぶりに「自分の呼吸」が戻る。


——だが同時に、背筋が冷える。


空気の端が、薄く歪んだ。


触りではない。

圧でもない。


“こちらが席を浮かせた”ことを、どこかが知った気配。


志乃は反射で押し返さない。押せない。

ただ、再固定の準備をする。


三条の声。


「戻せ。今だ」


志乃は戻す。

席が沈む。基準が再び座る。


歪みは消える。


モニターが確定を出す。


間欠維持:成功(初回)

志乃:想起遅延 低下(微小)

外部位相ノイズ:検出不能(変化なし)

備考:解除時に“歪み兆候”あり


医療監督が息を吐く。


「……少し、顔色が戻った」


志乃も感じる。

混線の糸が、ほんのわずかにほどけた。


でも代わりに、理解した。


解除の瞬間は、危険だ。

空席ができる。空席は狙われる。


三条が志乃を見る。


「続けるか」


志乃は、怖いまま頷いた。


「続けます。……でも、必ず短く」


短く。

短くしないと、空席が“席”になる。


その夜。


志乃は個室に戻り、天井を見上げた。


胸の奥の席はまだある。

でも、ほんの一瞬だけ「自分」に戻れる道ができた。


それが希望で、同時に刃だった。


間欠の呼吸を続ければ、参照侵蝕は遅らせられる。

けれどその呼吸は、外に「隙間」を知らせる。


志乃は目を閉じる。


女の声が、また近づく。


今夜は内容が少しだけ輪郭を持つ。


「……戻して」


誰に向けた声なのか分からない。

でも、志乃の胸の奥の席が、その声に一拍だけ応えた。


志乃は息を止めた。


(私の参照が、もう塔の参照と混ざってる)


守るのは都市か、自分か、ではない。

混ざった参照を、どう生かすか。


問いが形を変えて立っていた。

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