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もう1つのロストテクノロジー  作者: 維岡 真
第3章 混沌と狂気

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混線

朝。


志乃は目を開けて、すぐに違和感を数えた。


ここは中央塔の保護区画。白い天井。監視ランプ。空調の一定音。

いつもと同じ。


なのに、胸の奥の「席」が――昨夜より深い。


重さが増したというより、重さが“馴染んだ”。

身体の内側に、正しい位置として固定された感覚。


志乃は息を吸って、吐く。


その呼吸の間に、ふっと別の匂いが混ざった。


紙の擦れる音。

高い天井の白。

図面の上を滑る指先。


志乃は反射で目を閉じる。


(また来た)


来るのは“触り”ではない。

削りでも圧でもない。


順序。


順番が、胸の内側に入ってくる。



医療監督が入ってくる。


「おはよう。睡眠は」


志乃は答えようとして、一拍遅れた。


「……寝ました。たぶん」


医療監督が端末を覗く。


「睡眠ログは短い。浅い。夢は?」


志乃は首を振る。


「夢じゃないです。……混ざります」


医療監督の手が止まる。


「混ざる?」


志乃は言葉を探す。


「昨日のことを思い出そうとすると、別の白い部屋の匂いがします。

ここじゃない場所。知らない場所の“順番”が入ってくる」


医療監督の顔から、表情が消える。職務の顔になる。


「簡単な確認をする。名前は」


「綾崎志乃」


「今日は何日?」


志乃は答えようとして、口の中で数字がばらけた。

一瞬、別の年月が浮かぶ。古い日付。桁が違う。


「……わかりません。待って」


医療監督が即座に言う。


「大丈夫。息を整えて」


志乃が呼吸を落とすと、数字は戻った。

戻ったが、“戻り方”が怖い。



中央塔・観測室。


三条は報告を受けて、言葉を減らした。


「いつから」


「昨夜から顕著です。今朝、日付の想起に遅延。匂いと音の混線を本人が自覚」


観測員が補足する。


「基準位相固定後、外部ノイズは検出不能のままです。欠損も未発生。

ただし……志乃波形に“参照揺らぎ”が出ています」


三条が画面を見る。


基準位相:綾崎志乃(継続)

塔:安定(暫定)

外部位相ノイズ:検出不能

志乃:参照揺らぎ(微小)/想起遅延(観測)


検出不能。

なのに、揺れている。


三条は低く言った。


「外が消えたんじゃない。外が“中”に来た」


制御主任が顔をしかめる。


「そんな説明は——」


「説明じゃない。現象だ」


三条は遮る。


「基準位相を通路にされた。

塔が掴まれるのを止めた代わりに、志乃が掴まれ始めている」


室内が黙る。


都市は安定している。

だからこそ、志乃の異常は“見えないコスト”として切り捨てられやすい。


三条は短く命じた。


「基準位相の負荷を下げる。今すぐ。運用は“固定維持”から“間欠維持”に落とす」


制御主任が硬い声で返す。


「上が許可しません。基準を落とせば、また外部参照が——」


「志乃が壊れる」


三条の声が低い。


「壊れた基準は意味がない。——基準が人間である以上、限界が先に来る」



上層への回線。


返答は速かった。


基準位相は維持。都市安定が最優先。

志乃の症状は“軽度の過敏”として扱え。

介入は医療対応に限定。


三条は端末を見つめたまま動かなかった。


軽度。

この都市が一番よく使う言葉だ。軽く言って重くする。


制御主任が小さく言う。


「……切り捨ての準備です」


三条は答えない。

答えると、ここで戦いが始まる。


三条は一度だけ息を吐き、言った。


「医療対応“だけ”で止まる症状じゃない。

これは参照侵蝕だ。——都市の中心が、人間の中に座った副作用だ」


制御主任が問い返す。


「では、どうする」


三条は短く言った。


「志乃に聞く」



保護区画。


志乃は椅子に座っていた。手首の抑制環が冷たい。

冷たいのに胸の内側は熱い。重さの席が、じわじわ脈を打っている。


三条が入ってくる。表情は薄いまま。だが歩幅が急いでいる。


「志乃」


「……はい」


三条は端末を置かずに言った。


「基準位相の維持を上が命じた。だが、お前の症状が出始めた。

このまま固定を続ければ、お前の“参照”が削られる可能性がある」


志乃は喉が鳴る。


「参照……」


「記憶、感覚、判断の順序。お前の“お前である根”だ」


志乃の胸が重くなる。

言葉にされると、逃げ場がない。


三条は続けた。


「選択肢は二つある」


志乃が三条を見る。


「一つは、上の命令通り固定を続ける。都市は安定する。

もう一つは、基準位相を“間欠”に落とす。都市の安定は揺れるかもしれない。だが、お前の参照は守りやすい」


志乃は息を吸って、吐いた。


都市を守るために残った。

仲間を危険に遭わせたくなくて残った。

真実を知りたくて残った。


でも、真実を知る前に、自分が自分でなくなるなら――何の意味もない。


志乃は小さく言う。


「……今、私は、削られてるんですか」


三条は一拍だけ沈黙し、正直に言った。


「削られている“兆候”がある。まだ戻れる段階だ。

だから今、聞いている」


志乃は、すぐに答えられなかった。


間欠にすれば、都市は揺れるかもしれない。

揺れたら、また誰かが倒れるかもしれない。


固定を続ければ、志乃の中が混線していく。


どちらも嫌だ。


志乃は手を握り、ほどいた。


「……考えさせてください」


三条は頷く。


「いい。ただし時間はない。症状は進む。

今日中に、方向だけ決めろ」


扉が閉まる。



志乃は天井を見上げた。


重さの席は動かない。

動かないまま、別の匂いがまた混じる。


紙の音。

指先の動き。

そして――女の声が、今までで一番近くなる。


内容は相変わらず聞こえない。

でも一語だけ、輪郭が立った気がした。


「……だめ」


志乃の胸がひくりと鳴る。


“だめ”は、誰に向けた声なのか。

何を止める声なのか。


志乃は目を閉じた。


都市の基準になった自分を守るか。

都市の安定を守るか。


その二択が、ついに「身体の中の順序」として現れ始めている。


決めなければならない。

でも決めた瞬間、何かが終わる気がしてならなかった。



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