返礼
中央塔の夜は、会話に向かない。
会話は本来、音と表情で成立する。
だがここで交わされるのは、波形と欠損と、極短の接触だけだ。
それでも――相手は返してくる。
外部位相ノイズ:再接触(極短)
追従:未開始
欠損:未発生
備考:探針反応に対する試行と推定
表示は、中央塔内の空気を一段だけ冷たくした。
追従でも侵入でもない。「応答」。
三条は観測室で画面を見つめたまま、短く言った。
「返礼だな」
制御主任が眉を寄せる。
「礼、ですか」
「会話になった。……会話になった以上、次は“言葉”が来る」
誰も笑わない。
言葉など聞こえないはずなのに、言葉が来ると言われると、全員が理解できてしまう。
志乃は個室から呼び出された。
整流室に入ると、モニターが増えていた。波形の表示だけでなく、閾値、抑制環の温度、導波路のゲイン、外縁封鎖班のアレイ稼働状況まで一括で見える。
「短いセッションだ」
三条が言う。
「相手が“触り返し”を覚えた。次は探針に噛みついてくる。
噛みついた瞬間、こちらは“偽探針”を渡す」
志乃が瞬きをした。
「偽……探針?」
制御主任が補足する。
「相手が吸い上げるなら、吸い上げさせる内容を選ぶ。強い入力は鍵になる。だから、弱いまま“嘘の履歴”を混ぜる」
履歴、という言葉が胸に引っかかる。
欠損の向こうで見えた、別色の断片。金属の匂い。紙の擦れる音。遠い声。あれは――自分のものではなかった。
三条が視線を固定した。
「志乃。触りを受けたら、三層で守る。外層は“偽”だ。
本物の探針は出すな。今日は絶対に」
志乃は頷いた。
やることが増えるほど、怖さは増える。
けれど同時に、怖さの輪郭が具体的になっていく。
開始。
塔の応答は近い。
志乃の波はそれに寄り添い、呼吸の間にまで入り込む。
来ない。
来ない時間は、相手がいない時間ではなく、相手が“見ている時間”だと志乃はもう知ってしまっていた。
胸が小さく跳ねる。
(来る)
触り。
極短。
志乃は表層を立てる。二回で止める偽標識。追従を誘うふりだけして、続きは渡さない。
深層で塔を整える。最小。鍵を回さない。
そして外層――偽探針。
志乃は、ほんの針先ほど“外へ出す”感覚を作る。
だが中身は、空に近い。形だけ。癖だけ。意味のない殻。
(噛んでいい)
次の瞬間、痛みが違う形で来た。
削られる感覚。
薄くなる感覚。
吸われる。
志乃の胸の縁から、偽探針が“持っていかれる”のがわかった。
奪われたのに、怖さが一段だけ小さいのは――中身を渡していないからだ。
モニターが跳ねる。
外部位相ノイズ:接触(極短)
志乃外層:偽探針 欠損(検出)
志乃深層:保持
塔欠損:未発生
追従:未開始
観測員の声が上ずる。
「欠損、塔側は立ってません! 志乃側の外層だけ!」
三条の目が細くなる。
「……食ったな」
志乃は目を閉じたまま、相手の“息遣い”を探した。
前回の若い呼吸。興味の呼吸。
今日も、それが一拍だけ混じった気がした。
次の瞬間、触りが消える。
逃げた、というより、確認して去った。
志乃は息を吐いた。
胸の奥が痛む。それでも欠損の空白よりは、耐えられる痛みだった。
三条が端末を見て、制御主任に短く言う。
「外縁のアレイ、反応は」
返答がノイズ混じりに返る。
『……微弱反応あり。方向、境界線沿い。移動。速度は——一定じゃない』
一定じゃない。
それが人間らしさを増幅させる。
制御主任が言った。
「相手、偽探針を読んでいるなら、こちらの“嘘”に気づく可能性もあります」
三条は否定しない。
「気づく。だから次がある。
相手は次に“嘘じゃないもの”を取りに来る。——欠損か、深層だ」
深層。塔整え。
そこに触られたら、塔の中が覗かれる。
志乃の背中に冷たい汗が浮く。
(相手は、読む)
読む目は、いまは“志乃の外層”を読んだ。
次は、もっと内側を読みに来る。
学院。
古本は公開ログを見ていた。
表に出るのは整えられた数字だけ。それでも“整え方の癖”は残る。
西野が端末を握って言う。
「親父から。塔側、外層だけ削られたって」
古本は頷いた。
「吸収……というより、サンプリングだ。触って、取って、帰る」
「そんなの、どう止める」
古本は紙のノートを閉じた。
「止めるより先に、“取らせる内容”を選ぶしかない」
西野が顔をしかめる。
「志乃が危ないってことじゃねえか」
古本は言葉を詰め、珍しく一拍遅れて答えた。
「……危ない。だから都市は志乃を囲う。
囲えば安全になる、じゃない。囲うしかない。今の都市には、他の手がない」
西野は返せない。
わかってしまうからだ。都市の恐怖が、個人の自由を削る速度のほうが速い。
中央塔・保護区画。
志乃は戻され、個室の灯りが落とされる。
胸の外層に残る薄い欠けが、まだ熱い。
眠ろうとした瞬間、胸がひくりと鳴った。
来る。
今度は、もっと短い。
触りが入る前に、志乃は深層を固めた。
塔整えを最小で維持し、外層は空のままにする。
触り。
極短。
だが今回は――削られない。
代わりに、視界が別色を帯びた。
金属の匂い。紙の擦れる音。遠い天井の高さ。
そして、誰かの指先が図面の上を滑る感触。自分のものではない手の癖。
次に、女の声が混じった。
名前は聞こえない。内容も聞こえない。
けれど“怒っていない声”だった。生きている温度の声。
志乃は息を止めた。
(今のは……相手の見るもの? それとも相手が“見せた”もの?)
次の瞬間、別色が消える。
触りも消える。
モニター側で小さなアラートが鳴った。
外部位相ノイズ:接触(極短)
欠損:未発生
備考:情報様の位相像を志乃側に残留(未解析)
志乃は、喉の奥が痛くなるほど唾を飲み込んだ。
相手は取るだけではない。
返してくる。
返礼。
会話。
そして会話は、次に“要求”へ変わる。
観測室。
三条がそのログを見て、静かに言った。
「……見せたな」
制御主任が硬い声で問う。
「何を」
三条は答えない。答えを持たない。
だが志乃の顔色を見れば、ただのノイズではないことはわかる。
「次は、志乃を通して塔を見るんじゃない」
三条は言葉を切った。
「塔を通して、志乃を見るかもしれない」
志乃は個室の天井を見上げたまま、胸の波の縁を確かめる。
相手が若い息遣いを持ち、過去の匂いに触れ、そして“見せてくる”。
その輪郭はまだぼやけている。
けれど確かに、人間の輪郭だった。
志乃は小さく息を吐く。
(次は、私が質問する番だ)
会話になったなら、問いを投げられる。
位相で。
欠損なしで。
鍵を回さずに。
都市が壊れる前に。




