統計誤差
翌朝。
東都研究都市は、いつも通りの顔をしていた。
白いスカイ・ピラーは雲を押し上げるようにそびえ、空は均質で、風の流れすら規則正しい。街角の霊気灯は点滅ひとつせず、巡回ドローンは決まった高度をなぞっていく。
志乃は出発前に、端末で市の公開ログを開いた。霊気濃度は基準値内。循環路の負荷も平常。警報履歴は空欄。
ニュースにも、異常の文字はない。
(……何も起きてない)
そう確認してから、志乃は家を出た。
学院の門をくぐった瞬間、空気がわずかに違うと感じた。
騒がしいわけではない。誰かが声を荒げているわけでもない。けれど、廊下を行き交う生徒たちの視線が落ち着かない。雑談の端々が短く切れ、笑い声が途中で止まる。
“何か”を気にしている。
教室に入ると、西野が鞄を机に置きながら言った。
「今日、全学年一斉で再測定だってさ」
志乃は思わず眉を上げる。
「月次じゃないのに?」
「“設備点検に伴う確認”だとよ。まあ、建前だろ」
その会話を聞いていたのか、後ろから古本が静かに補足する。
「昨日の十四時十七分以降、霊気出力ログが〇・〇二%だけ揺れている」
志乃は振り向いた。
「〇・〇二%……?」
「誤差の範囲内」
古本は淡々と言い切る。まるで、そういう結論以外を許さないみたいに。
「でも、都市全域で同時刻に出ている」
西野が乾いた笑いを漏らした。
「お前さ、それ誤差って言わねえんじゃね?」
古本は返事をしない。ただ、ノートの端に何かを書き足す。数字の書き方だけが妙に几帳面だった。
志乃の胸の奥が、昨日の“重さ”を思い出すように、かすかにざわめいた。
一限目は通常授業だった。
神代教官は昨日と変わらぬ口調で理論を進める。チョークの音、ページをめくる音、規則的な教室の呼吸。
ただひとつだけ違う点があった。
教室の後方に、見慣れない装置が置かれている。
小型の霊気観測ユニット。学院で日常的に使う簡易測定機とは桁の違う精度のものだ。外装に記された管理コードも、市の研究局系の形式に見えた。
志乃は視線を向け、すぐに逸らした。
(点検、ね)
“点検”という言葉が、必要以上に軽く感じる。
神代教官は装置に触れもしない。説明もしない。装置はそこに“ある”だけで、教室の空気をじわじわと変えていた。
午前十時四十二分。
測定室。
番号順に生徒が呼ばれ、カプセルへ入っていく。透明な壁、内側の淡い照明、床に走る細いケーブル。密閉というほどではないのに、入った瞬間だけ音が遠のく。
志乃の番が来た。
「綾崎。入って」
観測員の声は事務的で、感情の起伏を含まない。制服ではなく、灰色の作業服。学院職員というより、外部の人間に見える。
志乃はカプセルに足を踏み入れ、胸の奥で呼吸を整えた。
霊気は万物に備わるエネルギー。
無理に出す必要はない。
制御すればいい。
装置が作動する。
微かな振動が足裏から伝わり、耳の奥で“無音に近い音”が鳴った気がする。ディスプレイに数値が流れ、グラフが走る。呼吸の周期、脈拍、霊気の微小変動――見慣れた項目が、見慣れない精度で並んでいく。
観測員の顔は動かない。
数秒。あるいは十数秒。
「異常なし。次」
それだけだった。
志乃は外へ出た。拍子抜けするほど、何も起きない。
廊下で西野が待っていた。
「どうだった?」
「普通……だった」
「俺も普通。なーんも言われなかった」
少し遅れて古本が出てくる。
「平均値、昨日と一致」
その言葉に、志乃はようやく肩の力を抜いた。
昨日の揺らぎは、やはり気のせいだったのかもしれない。
都市は正しく、装置は正確で、異常はない。
――そういうふうに、納得できそうだった。
昼休み。
三人は屋上へ上がった。風が強く、フェンスが低い唸りを立てる。ここからはスカイ・ピラーがよく見える。白い塔は遠いのに、視界の中心に居座る。
塔は静かだ。
完璧な安定。完璧な垂直。完璧な“何もなさ”。
西野がフェンスにもたれ、視線を空に固定したまま言った。
「なあ志乃。お前、昨日なんか感じなかったか?」
志乃は一瞬、答えるべきか迷った。
自分の感覚を口にするのが怖い、というより――口にした途端、現実になる気がした。
「……ちょっとだけ。空気が重くなった気がした」
古本が、間髪入れずに言う。
「主観的感覚は統計に入らない」
「夢がないな」
西野は笑った。けれど、その笑いは長続きしない。目はずっと塔を見ている。
志乃も、古本も、同じだった。
無意識に。
午後の授業は霊気応用演習。
簡易出力訓練――手のひらに微弱な霊気を集束させ、光として維持する。目的は派手さではなく、安定と制御。授業で繰り返し叩き込まれる基本だ。
西野は安定している。明るさは中程度だが、揺れが少ない。
古本は弱い。しかし、寸分の乱れもなく形が整っている。針の先ほどの光を、そこに“置いている”みたいな精密さ。
志乃は息を吐き、掌に意識を落とした。
光が生まれる。淡い。問題ない。
――そのはずが。
ほんの一瞬だけ、出力が跳ねた。
光がわずかに膨らみ、揺らいだ。熱でも痛みでもないのに、掌の内側がきゅっと締まるような感覚が走る。
(今の……)
志乃が制御をかけ直したときには、光はもう通常の強さに戻っていた。周囲の生徒は気づかない程度の変動。騒ぎになるほどではない。
だが。
神代教官の視線だけは、確かに志乃へ向いた。
ほんの一拍。
見定めるような、測るような視線。
そして、何事もなかったかのように逸らされる。
「制御を優先しろ。出力は求めていない」
言葉はいつも通りだ。叱責の温度もいつも通り。
だからこそ、志乃の胸に残った。
(今のは……私のせい?)
胸の奥が、昨日より少しだけざわついている。
ほんのわずか。
他人には見えない。
けれど志乃自身には、見過ごせない。
放課後。
掲示板に小さな通知が出ていた。紙ではなく、電子掲示の隅に出る淡い文字。
霊気観測装置の精度向上に伴い、当面の間、週次測定を実施する
西野が読み上げ、鼻で笑った。
「やっぱ点検じゃねえな」
古本が低く言う。
「都市全体のログ解析が始まっている」
その言い方は、“始まった”というより、“始めざるを得なくなった”に近い響きだった。
志乃は何も言わなかった。
ただ、スカイ・ピラーを見る。
塔は今日も静かだ。
完璧に。
――完璧すぎるくらいに。
その完璧さが、逆に薄気味悪い。
その夜。
都市中央、観測室。
壁一面のモニターに、霊気濃度、循環路負荷、出力ログ、気象データが並ぶ。どれも基準値内。警報は点かない。統計上、問題なし。
それでも、グラフには微細な波が刻まれていた。
十四時十七分。
そして今日の十五時〇三分。
いずれも誤差。
いずれも説明可能。
いずれも――“無視してよい”はずの値。
担当者は画面を閉じなかった。
指先で拡大し、波形の重なりを確認し、別のログを呼び出す。隣の席の誰かが「またか」と呟いた気配がする。
室内の空調は一定の温度で回っているのに、そこだけ時間が重い。
担当者は、モニターの隅に表示された塔の簡易映像へ目をやった。
スカイ・ピラーは、何事もない顔で光っている。
――何事もないまま、ずれていく。
その“ずれ”を、統計はまだ異常と呼ばない。
だからこそ、誰かが見張っていなければならなかった。
静かな偏差は、誤差のふりをしたまま、次の時刻を待っている。




