第五章 ヒストリア・ワイルド邸
錆びついた鉄門の前で、俺たちは足を止め、《ヒストリア・ワイルド邸》を見上げた。
静かすぎた。
窓は暗い。だが、空っぽではない。
まるで瞬きをやめた“目”みたいだった。
蔦が石壁に絡みつき、崖にしがみつく指のように外壁を締め上げている。
この場所は廃墟じゃない。
……止まっている。
まるで、この屋敷だけ時間の流れから切り離されたかのように。
背後の木々を風が抜けていく。
なのに、中庭の背の高い草だけは微動だにしていなかった。
正面扉が少しだけ開いているのに気づく。
招き入れるには狭すぎる。
けれど、閉まりきらなかった――あるいは、“閉じることを許されなかった”ような隙間だった。
「な、なあ……みんな……」
レイの声が静寂の中へ滑り込む。
影の奥へ視線を泳がせながら、袖を握る指先に力を込めていた。
ごくり、と喉が鳴る。
「い、今さらだけどさ……命懸けるのって、今ここでやるべき一番賢い選択じゃなくないか……?」
乾いた笑いが漏れる。
その脆さだけで、どれだけ怯えているか丸わかりだった。
「ビビり。」
「軟弱。」
俺とシンは舌打ちし、そのまま歩き出した。
レイが勇気を出すのを待っていたら、《レッドフォール》の方が先に老衰で引退しそうだったからな。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 一人にするなってぇ!」
レイが声を潜めながら慌てて追いかけてくる。
泣き虫のくせに、こういう時だけ妙に足が速い。
ポーチの床板が軋んだ。
まだ体重をかけ切っていないのに。
俺は動きを止め、耳を澄ませる。
その音は屋敷の奥へ響き渡り――まるで“何か”が応えたみたいだった。
空気は古い。
湿った木材、埃、それと鉄臭さ。
まるで降らなかった雨の匂い。
そして確信していた。
もしもう一度、二階の窓を見上げたら――そこには誰かが立っている。
レッドフォールか?
……あり得る。
屋敷の中へ入ると、大きな階段が二つ、左右に分かれて上階へ続いていた。
赤い絨毯はずたずたに裂け、視界の果てまで伸びている。
廊下は異様に広かった。
……終わりが見えない。
錯覚なのか、それとも別の何かなのか。
俺には判断できなかった。
だが、この重い空気だけで十分だった。
屋敷全体が、腐敗した神秘エネルギーに満たされている。
前方へ視線を向けると、磨かれた木製の扉が見えた。
俺は深く考えず、その扉へ向かい、レイとシンに合図する。
「ボス。レッドフォール、あの中にいると思うか?」
シンは拳を握り込みながら問いかける。
同時に、ガントレットを具現化していた。
「さあな。確かめれば分かるだろ?」
俺は答えながら、周囲に余計な波動を漏らさないよう静かに鎌を召喚した。
まだ周囲の神秘エネルギーを吸収しきれていない以上、今の俺の鎌はそこまで強くない。
……だが、戦えないわけじゃない。
ギィ……
扉が軋みながら開き、俺たちは中へ踏み込んだ。
……ん?
そういえば、レイの声がしない。
振り返ると、奴は入口近くで立ち尽くしていた。
黒い剣を握る手は白くなるほど力が入り、視線は影の中を忙しなく彷徨っている。
まるで、今にも何かが飛び出してくるとでも思っているみたいに。
「まったく……」
小さくため息をつき、俺は再び前を向いた。
壁一面には、光沢を放つ artifacts が並んでいた。
巨大な竜の頭部。
永遠の怒りを刻みつけた牙。
捻じれた角。鉤爪。装甲のような爪。
学院の資料でしか見たことのない怪物たちの残骸。
だが、それは装飾じゃない。
“保存”だった。
……そういえば、考えてもみなかった。
この屋敷の主は、《ビーストコレクター》なのか?
このレベルの戦利品を所有できるのは、正式な資格を持つ者だけだ。
もし違うなら――
この状況は説明がつかない。
違法取引でも絡んでいない限り。
俺は鎌を握る手に力を込めた。
神秘の違法売買ってのは、大抵、脱税なんかじゃ終わらない。
もっと最悪なものに繋がる。
――腐敗だ。
「この屋敷の主、相当金持ちだったんだな、ボス?」
シンがチャンピオンの戦利品でも眺めるように笑う。
俺は頷くだけだった。
見惚れていたわけじゃない。
ただ――“なぜここにあるのか”を考えていた。
「ニャ〜」
……ん?
反射的に左を見る。
廊下に、一匹の猫が立っていた。
いや――ただの猫じゃない。
緋色の毛並みは光を飲み込み、深紅よりなお暗く、それでいて濡れた絹のように艶めいている。
瞳は深い赤。
瞬き一つしない。
尾の先は綺麗な三日月を描いていた。
《スカーレットキャット》。
雌しか存在しない希少種。
滅多に主から離れない。
「おぉ……あれって“夜猫”だっけ? なんて名前だっけ……」
シンが小声で呟く。
「スカーレットキャットだ。」
俺はしゃがみ込みながら答えた。
この神話級の猫がいるってことは――
飼い主も近くにいる。
「まったく……どうして問題児ばっかりと行動しなきゃならないのかしら。」
聞き覚えのある声が耳に届いた。
視線を上げると、銀髪を肩へ流した少女が腕を組み、疲れたような表情で立っていた。
「おやおや。《話しかけるな》お嬢様じゃないか。」
考えるより先に口が動いていた。
「その呼び方やめなさい、このバカ!」
案の定、彼女は即座に噛みついてくる。
苛立ちと疲労が混じった声。
腐敗した神秘エネルギーの影響もあるんだろうが……その反応の仕方。
なんか、ペットの猫よりこっちの方が猫っぽいな。
「ど、どういう意味だ……?」
シンが首を傾げる。
当然だ。学院での俺たちのやり取りなんて、こいつは見ていない。
……レイも同じはずだが。
「……ん?」
俺は眉をひそめた。
レイが妙に青ざめた顔をしている。
……なんだ?
「お、お前……!」
ぎこちない動きで俺へ振り向いたかと思えば――
「どうかこの無礼者をお許しください、アリア殿下!!」
……は?
は?
はぁ!?
気づけば俺の頭は床へ押しつけられていた。
レイの手が頭蓋骨を掴み潰す勢いで押さえつけてくる。
痛ぇ!!
「レイ! 何しやが――」
「黙れ!」
凄まじい勢いで遮られた。
そのまま彼は片膝をつき、アリアへ向き直る。
「エデン、お前は自分が何をしたか分かっているのか? アリア王女殿下に対して、そのような不敬極まりないあだ名を――」
……いや待て。
アリア?
王女?
「そうなのか?」
シンが本気で困惑した顔をする。
俺はただ深くため息を吐いた。
いや、王女なのは分かった。
でも、そこまで騒ぐことか?
別に侮辱したわけじゃない。
ただ、友達だと思ったからあだ名をつけただけだろ。
「頭を上げてください。」
ようやくアリアが口を開いた。
なぜか少し戸惑ったような声音で。
「別に構いません。同級生同士ですもの。あだ名くらい、悪くないでしょう?」
くすり、と彼女が笑う。
……だが。
俺の顔面が床にめり込んでるのを、わりと楽しんでないかこいつ?
「は、はい……」
レイは頷き、ようやく俺の頭を解放した。
立ち上がった瞬間、俺はレイを睨みつける。
だが奴は視線を逸らすだけ。
怖がってるのは分かる。
でも、この暴挙はさすがに酷い。
兄弟じゃなかったら腕の一本くらい折ってたかもしれない。
……まあ、いい。
「オホン。では、改めて自己紹介を。」
俺の視線はアリアへ向く。
彼女はスカートの裾を軽く持ち上げ、まさに王族らしく優雅に一礼した。
「私の名前はアリア・ヴェルシャイン。
《王一世》より続く第七世代の末裔です。
三人にお会いできて光栄です。……もっとも、一人とは既に知り合いですけれど。」
その視線がこちらへ向く。
俺は思わず grin を浮かべてしまった。
あのあだ名を呼ばれた時の顔、かなり面白かったしな。
「王一世……? あぁ! 大戦時代の王ってことか!?」
シンが勢いよく声を上げる。
レイの顔色がさらに悪くなった。
また王族への無礼扱いになるんじゃないかと怯えているんだろう。
「えへ。」
突然、小さな笑い声が響いた。
「そうそう、あの王様。ふふっ、あなたたち本当に面白いわね。」
まさかの――
一番大笑いしていたのはアリア本人だった。
流石にちょっと現実味がなかった。
だが――
彼女は、ゼロと共に戦った王の血を継ぐ者。
あの時代の歴史には、絶対にまだ隠されているものがある。
俺はそう確信していた。
ほとんどが隠蔽されている。
……あるいは、俺の思い込みかもしれないが。
「妙だな。」
ようやく違和感が一つ繋がった。
俺は右側の廊下を指差す。
「ここに来て三十分以上経ってるのに、怪しいものに一つも遭遇してない。ただ空気が重いだけだ。」
「……確かに。」
レイが眼鏡を押し上げながら頷く。
シンは無言のまま周囲を見回していた。
「そうね。私も一時間以上ここにいるけれど……何も遭遇していないわ。」
アリアがゆっくり周囲を見渡す。
「それに、この廊下も……内部構造も。屋敷の外観に対して広すぎる。」
その通りだった。
何かがおかしい。
レッドフォールにはまだ遭遇していない。
なのに、この場所全てが異常だった。
もしレッドフォールが存在を隠せるとしたら?
もし、最初からずっと俺たちの近くにいたとしたら?
「……フン。」
俺は目を細め、神秘エネルギーを視覚へ流し込む。
歪み。
隠された気配。
異常。
何かを探す。
……だが、何もない。
あるのは息苦しいほどの静寂だけ。
ここはもう屋敷なんかじゃない。
まるで――
自分たちが既に閉じ込められていることに気づくのを待っている、終わりのない迷宮みたいだった。
ゴゴゴゴゴゴ――!!
「っ!?」
次の瞬間。
床が激しく震え始めた。
まるで大量の神秘獣がこちらへ突進してくるかのように。
だが――
「なっ……!?」
「あれは……?」
現れたのは、誰一人予想していなかったものだった。
廊下の果てから現れたのは――骸骨の騎兵隊。
人骨。
そして歪んだ馬の骨格に跨った、死の軍勢。
眼窩には蒼い炎が灯り、死にかけた星みたいに揺れている。
蒼炎は壁や天井を舐めるように這うのに、何一つ燃やさない。
錆びた武器が打ち鳴らされる。
そして――
静寂のまま、一直線にこちらへ突撃してきた。
やがて、骨が石床を叩く轟音が廊下を埋め尽くす。
そして俺は理解する。
――立ち止まっている時間じゃない。
動く時だ。
「行くぞ、お前ら! 戦闘準備!」
俺は鎌を握り直しながら叫んだ。
分かっている。
……この戦い、楽には終わらない。
<FATE SIMULATOR — 観測ログ>
[場所:ヒストリア・ワイルド邸]
[対象ID:???]
[異常検出:ZERØ-ECHO]
[二次接触:複数対象との接触を確認]
→ エデン・クレストフォール(主要共鳴体)
→ アリア・ヴェルシャイン(ゼロ系統適合者)
→ 不明汚染存在(未登録)
[局地現実歪曲:増幅中]
[空間構造安定性:崩壊進行]
[内部拡張現象:確認済み]
[敵性存在数:ERROR]
[運命逸脱率:37% → 52%]
[時間軸同期:重大な同期崩壊を検出]
[脅威レベル:測定不能]




