1955年7月17日、"世界一幸せな場所"は最低の日曜日から始まった
ウォルト・ディズニーは、毎週末のように幼い2人の娘を連れて動物園や遊園地へ遊びに行っていました。あるとき、娘たちは遊具に乗って楽しんでいるのに、自分はベンチに座ってピーナッツを食べるだけという状況に、おとなと子どもたちが一緒に楽しめる場所を造るべきではないかと考えたのです。ウォルトが考えたディズニーランド計画とその開発には15年という長い年月がかかったといいます。そして、ついに1955年、カリフォルニア州にディズニーランドを完成させたのです。
1955年7月17日、日曜日の午後。アメリカ中の茶の間で、およそ半数の家庭がブラウン管の前に集まっていた。白黒テレビに映るのは、シンデレラ城と、ミッキーマウスと、笑顔で手を振るセレブリティたち。司会のひとりは、まだ俳優だった頃のロナルド・レーガン——のちにアメリカ大統領になる男だ。画面越しに見るかぎり、そこは一分の隙もない、完璧な夢の国だった。
けれど、カメラのフレームのすぐ外側では、まったく違う一日が進行していた。
その日の未明。開園を目前に控えたウォルト・ディズニーは、メインストリートの消防署の2階にある自室に、誤って閉じ込められてしまった。窓から助けを呼び、ようやく外へ出られた頃には、世界初の本格的テーマパークにとって運命となる一日が、すでに静かに動き出していた。
Walt Disneyがこの場所を思い描いてから、実に20年以上が経っていた。親がベンチで居眠りし、子どもだけが走り回るような、古びた遊園地にはうんざりしていた。大人と子どもが一緒に夢を見られる場所を作りたかったのだ。1954年、彼はアナハイムのオレンジ畑160エーカーを買い取り、集めたチームとともに、わずか366日で、そこに1700万ドルをかけた遊園地を築き上げようとした。銀行家たちは首をかしげ、兄のロイでさえ不安を隠せなかった。周囲からは陰で「Walt's Folly」——ウォルトの道楽、とまで呼ばれた計画だった。予算をかき集めるため、Walt Disneyは自分の生命保険まで担保に入れている。ほぼ全財産を、まだ完成してもいない夢に注ぎ込んでいた。
開園当日、最初のうちは順調に見えた。招待客は1万5000人のはずだった。ところが実際に門をくぐったのは、その倍近い、約2万8000人。偽造された招待状やチケットが出回り、裏口の柵をはしごで越えるだけの"商売"——5ドルで済む——まで生まれていた。
続いて、天候が牙をむいた。カリフォルニアの気温は38度近くまで上がり、前夜遅くにようやく舗装が終わったばかりのメインストリートのアスファルトは、強い日差しに柔らかく溶けていく。着飾った女性たちのハイヒールが、次々と沈み込んで抜けなくなった。さらに悪いことに、水道工事のストライキのあおりを受け、Walt Disneyは「使えるトイレ」と「使える水飲み場」のどちらか一方しか選べなかった——選んだのはトイレだった。おかげで、うだるような暑さの中、来園者たちは無料の水を一滴も口にできず、売店でコーラを買うしかない。しかもそのコーラ会社は、その日の主要スポンサーのひとつだった。
午後になると、混乱はさらに膨れ上がる。ファンタジーランドでガス漏れが発生し、炎が眠れる森の美女の城に迫るなか、アドベンチャーランド、フロンティアランド、ファンタジーランド——3つのエリアが、数時間にわたって閉鎖された。定員を決めていなかった蒸気船マークトウェイン号は、乗客が景色を見ようと一斉に片側へ寄った拍子に大きく傾き、川の水が甲板になだれ込んで、あわや転覆というところまでいった。飲食店の食料は、正午を待たずに底をついた。
そのすべてが、テレビカメラの外側で起きていたことだった。生中継に見入る茶の間の目には、ミッキーマウスと、颯爽とオートピアを乗り回すフランク・シナトラと、カウボーイ姿で馬にまたがりメインストリートを行くフェス・パーカーしか映らなかった。当のWalt Disney自身も、その日はほとんど生中継の進行に付きっきりで、園内で本当は何が起きているのか、ほとんど把握していなかったという。彼が事の深刻さを知ったのは、翌朝、新聞各紙に目を通してからのことだった。
翌日、全米の新聞は容赦なかった。AP通信の評価を要約すれば、Walt Disneyはキャリアの中でおそらく初めて、何千人もの子どもたちをがっかりさせた、ということになる。「ブラックサンデー」——黒い日曜日という呼び名は、この頃からディズニーの社員たちのあいだで語られるようになった。
それでもWalt Disneyは、この惨敗をただの黒星では終わらせなかった。招待客をあらためて呼び戻し、今度こそ本物のディズニーランドを味わってもらう、静かな"第二日"を用意したのだ。数週間のうちに、1日あたりの来園者数は2万人を超え、開園から1年足らずで、累計360万人が訪れた。ディズニー社全体の年間売上も2倍以上に膨らみ、2450万ドルに達した。そしてこのオレンジ畑ひとつから始まった物語は、やがて東京、パリ、香港、上海へと広がり、"体験そのものを設計する"という、今日のテーマパーク産業——ひいては、あらゆる没入型エンターテインメントの原型を築くことになる。
わたしたちがいま「没入感」や「体験設計」という言葉で語る、あの緻密に作り込まれた夢の裏側には、もともと、熱で溶けたアスファルトと、渇いた喉と、偽造チケットと、あわや沈みかけた船があった。
いまでも当時のフィルムを探せば、あの日ブラウン管に映っていた、屈託のない笑顔の数々を見ることができる。けれど本当に語り継ぐ価値があるのは、その画面の外側で誰かが諦めずに踏みとどまった、ぶざまなまでの粘り強さのほうなのだと思う。偉大な始まりというのは、伝説が語るほど滑らかではない。
カメラの外側にあった混乱が、静かに人類の"娯楽"の定義を書き換えた日だ。




