8『運命』ではないのだから
「ここが奥様のお部屋になります」
ジーシに連れられて入った部屋で、私はただただ口をあんぐりとして、呆然と立ち尽くした。
落ち着いた木々を思わせる色合いで揃えられた家具に、暖かな色のカーテンとクッション、調度品が品よく並び、ごちゃごちゃと物があふれるサミレット家とはまるで違う。
まさに、私とは縁の遠そうな部屋に、ただただ圧倒される。
「気に入りませんでしたか?」
「あ、いえ……。すごく素敵です。ですけど、広過ぎじゃないかな……と」
この部屋だけで、実家の一階部分のすべてが余裕で入る。
大きな屋敷の中は、部屋まで大きくできているんだな……などと、ちょっと現実逃避してしまう。
「お飲み物のお好みはありますか?」
「いえ、特には。何でも好きです」
「畏まりました」
勧められるがまま、ソファへと腰掛け、その座り心地の良さに、思わずため息がこぼれた。
ジーシが、慣れた手つきで紅茶を淹れてくれるのを眺めながら、この大きな屋敷にたった八人しかいないという使用人について考える。
ヘンルートゥ伯爵が新しく侍女を雇えない理由は、夜這いをかけられたりと女性に狙われるからだってことは知っている。
でも、男性であれば、たとえ友達は無理でも雇用関係ならいけるのではないか。
そこまで考えて、もしかして……という可能性が浮かび上がった。
あれだけ美しいのだ、異性のみならず同性までも引き寄せていないとも限らない。
「どうぞ」
目の前に湯気の立った紅茶をジーシが出してくれた。
そのことで、ハッと現実に思考が呼び戻される。
「……いいにおい。ありがとうございます」
「いえ」
カップに口をつけて、一口飲めば、その美味しさにため息が出た。
「ジーシは、紅茶を淹れるのが上手なんですね。とても美味しいです。……あの、一緒に飲まないんですか?」
「私に同席するようにとのことでしょうか?」
探るような視線に、伯爵家では執事や侍女と一緒にお茶は飲まないのだということを理解した。
「すみません。実家ではみんなでテーブルを囲んでいたので、つい……」
「そうでしたか。では、次の機会からお言葉に甘えさせていただきましょう」
「え?」
「旦那様に嫉妬されたくありませんので」
そう言ったジーシに、冗談言うなんて意外だな……と、認識を改める。
それに、無表情だと思っていたけど、ほんの少し口角が上がっているように見えたのだ。瞬きの間に無表情へと戻っていたけれど。
「奥様、先ほどお聞きになりたいことがあるようでしたが。私で答えられる範囲であれば、何でもお答えします」
その言葉に、少し考えたあと首を横に振る。
「いえ。あとで直接、ヘンルートゥ伯爵に聞きます」
「畏まりました。では、私から一つだけ」
その言葉に背筋を伸ばし、ジージを真っ直ぐに見る。
「ヘンルートゥ伯爵ではなく、お名前で呼んで差し上げると、旦那様はお喜びになるかと」
「……え?」
「旦那様のお名前はご存知でしょうか?」
「それは、もちろん知っていますけど」
「では、試しに呼んでみてください」
有無を言わさぬ気配を感じつつ、何故そこまで名前にこだわるのかと不審に思う。
まぁ、ヘンルートゥ伯爵もこの場にいないし、呼んだくらいで減るものでもないからいいのだけど。
「…………ライラクス様」
「ヴォレッカ!」
私が名前を呼んだのと、部屋の扉が開かれ、ヘンルートゥ伯爵が中に入って来たのは同時だった。
「旦那様、ノックをしないのはマナー違反です」
「うっ……、申し訳ない」
「分かれば、結構です。ほら、奥様にも謝罪を」
「あぁ、ヴォレッカ。すまなかった」
「いえ、大丈夫です……」
そう答えつつ、不思議な関係だなとふたりを見る。
侍女たちともそうだ。まるで、子どもを大人が叱るかのようだった。
「もしかして、このお屋敷にいらっしゃる使用人の方々って、ヘンルートゥ伯爵が子どもの頃から仕えてらっしゃるのでしょうか?」
「そうだよ。ジーシ、アーネ、ミナー、ジリルは私の祖父の代からで、その他の者も幼少の頃からいる。あぁ、でも、護衛のキシスだけは、十年ほど前からだな」
「だから、こんなにアットホームだったんですね」
「あー、その……、ヴォレッカは嫌か?」
その言葉の意味が分からず、首を傾げる。
そうすれば、ヘンルートゥ伯爵はまるで覚悟を決めたかのような顔で私を見た。
「アットホームな雰囲気は嫌だろうか?」
「そんなことないですよ。むしろ、実家を思い出して安心します。あ、今度、ジーシが一緒にお茶をしてくれるって約束してくれたんです」
「ほぅ……」
「そばで誰かが控えた状態でお茶を飲むのって落ち着かないし、一緒に飲んだ方が美味しいじゃないですか。ヘンルートゥ伯爵家が厳しくなくて良かったなって思いました」
「そう……だな…………」
そう言いながら、他に席があるにもかかわらず、ヘンルートゥ伯爵は私の隣に腰をかける。
ジーシは、さっと当たり前のように新しい紅茶をヘンルートゥ伯爵の前へと置いた。
「そのような目で私を見られましても、困ります。今回は旦那様のために断ったことを褒めていただきたいくらいです」
「分かってはいる。それでも、嫌なものは嫌なんだ」
「ジリルも言っておりましたが、遅い初恋というのは、厄介ですね」
「……うるさい」
珍しく、ぶすっとした表情でヘンルートゥ伯爵は言った。
「やれやれ、困った旦那様だ。奥様、申し訳ございませんが、旦那様のご機嫌を取っていただいても、よろしいでしょうか?」
「私がですか?」
「はい。先ほど、お教えしたやつですよ」
そうは言われても、あれはヘンルートゥ伯爵がいないから言っただけ。
どんなに親しくなろうと、区別はきっちりつけておくべきだ。
本当のヘンルートゥ伯爵の『運命』のためにも。
「ヘンルートゥ伯爵」
「何だ?」
「結婚して、私もヴォレッカ・ヘンルートゥとなったので、ヘンルートゥ伯爵と呼ぶのはおかしいですよね」
「そうだね」
「なので、これからは旦那様とお呼びすることにします」
いつか終わりが来るのだから、境界線ははっきり引いておかないと。
ライラクス様と呼んで、変に情でも湧いてしまったら、困るから。
あくまでも、私は仮初の妻なのだから、深入りをし過ぎないようにしないとなんだよ。




