私たち
LOCAL INTEGRATION
0.16%
――現地統合。
玲奈は、その言葉の意味を考え続けていた。
侵略。
寄生。
融合。
どれもしっくりこない。
1400光年先に存在した彼らも、かつて同じ表示を見ていた。
そして彼らは滅びていない。
少なくとも、信号を送るところまでは文明を維持していた。
では――
何と何が統合されたのか。
生体ネットワークに接続した人間は、すでに二百万人を超えていた。
各国政府は対象者の追跡調査を始めている。
人格変化。
記憶障害。
認知機能。
攻撃性。
感情反応。
睡眠。
意思決定。
しかし――
異常は見つからなかった。
国際AI安全保障委員会。
「二百万人調べて、何もない?」
玲奈が尋ねた。
研究者が答える。
「正確には、詳細検査を実施できたのは約四万二千人です」
「それでも十分多い」
「はい」
「人格変化は?」
「統計的に有意な変化はありません」
「記憶?」
「正常」
「意思決定?」
「正常です」
ハルトマンが腕を組んだ。
「つまり、二百万人の脳に未知のネットワークが形成されているのに、本人たちは普通に生活している?」
「現在確認できる範囲では」
玲奈は考えた。
「じゃあ、統合って何?」
研究者が別のデータを表示した。
「一つだけ、奇妙な現象があります」
世界地図。
生体ネットワークへ接続した人間が点として表示される。
「睡眠中の脳活動です」
「睡眠?」
「ごく短時間ですが、離れた場所にいる複数のノードで似た神経活動が発生しています」
玲奈が地図を見る。
東京。
ベルリン。
ムンバイ。
サンパウロ。
ナイロビ。
互いに会ったこともない人間。
「同じ夢を見てる?」
「そこまでは分かりません」
「通信?」
「それも分かりません」
ハルトマンが言った。
「なら、確認する」
五人の初期ノードが集められた。
玲奈。
ブラジルの男性。
インドの少女。
ドイツの女性。
ケニアの男性。
もちろん実際に同じ場所へ集まったわけではない。
それぞれが別の隔離施設に入り、外部通信を遮断されている。
VEILも使わない。
実験開始。
最初の十分。
何も起きない。
二十分。
何もない。
三十分。
玲奈は椅子にもたれた。
「本当に意味あるの、これ」
研究者の声が室内スピーカーから聞こえる。
『もう少し続けてください』
「何をすれば?」
『何もしないでください』
「それが一番難しいのよ」
玲奈は目を閉じた。
その瞬間だった。
雨。
玲奈は目を開けた。
雨が降っている。
違う。
研究室ではない。
目の前に赤土の道がある。
強い雨。
裸足。
玲奈は走っている。
いや――
玲奈ではない。
身体が違う。
男。
手を見る。
黒い肌。
呼吸が荒い。
誰かの名前を叫んでいる。
意味は分からない。
遠くに小さな家。
その前に女性が立っている。
玲奈はその女性を見た瞬間――
胸が苦しくなるほど嬉しくなった。
映像が消えた。
玲奈は椅子から立ち上がった。
「今の何!?」
研究者たちが慌ただしく動いている。
『相馬博士、大丈夫ですか?』
「雨……」
「赤い道……」
「女の人……」
玲奈は頭を押さえた。
そのとき。
別の隔離施設。
ケニアの男性が、同時に立ち上がっていた。
彼は研究者に尋ねた。
『今、誰かがいた』
『誰です?』
男は困惑している。
『日本人の女性』
玲奈の表情が止まった。
二人は、それぞれ別々に体験した内容を記録した。
玲奈が見たのは、ケニアの男性が十七歳のときの記憶だった。
雨季。
学校から走って帰った日。
家の前に立っていたのは、長期間入院していた彼の母親。
玲奈が感じた強烈な喜びも、
彼がその瞬間に感じたものと一致した。
そして彼が見たもの。
東京。
冬。
病院。
九歳の玲奈。
母親の手。
玲奈はその記憶を誰にも話したことがなかった。
ハルトマンは報告書を読み終え、長い間黙っていた。
「記憶を送ったのか?」
玲奈は首を振る。
「私は送ってない」
「彼も?」
「送ってない」
研究者が言った。
「脳活動を見る限り、能動的な送信は確認できません」
「なら、どうして?」
「分かりません」
玲奈が言った。
「ネットワークが勝手に?」
研究者は答えなかった。
その夜。
玲奈は生体ネットワークに問いかけた。
「これが統合?」
返事はない。
「記憶を共有すること?」
長い沈黙。
『一部』
玲奈の表情が変わった。
「じゃあ全部だと何?」
沈黙。
『まだ』
「まだ?」
『できない』
通信はそこで途切れた。
翌日。
世界中で同じ現象が報告され始めた。
知らない場所の夢。
知らない人の記憶。
経験したことのない感情。
だが奇妙なことに、
自分と他人の区別が分からなくなった人間はいなかった。
玲奈は研究者に尋ねた。
「記憶が混ざってるのに、どうして人格が壊れないの?」
「脳は他人の記憶を自分の記憶として保存していないようです」
「どういうこと?」
研究者は二つの領域を示した。
「本人の記憶には、“自分が経験した”という識別情報があります」
「うん」
「共有された記憶には、それがない」
玲奈は理解する。
「誰かの記憶だって分かる?」
「はい」
「映画を見るみたいに?」
研究者は首を振った。
「もっと強い」
「実際に経験する。でも、自分の経験ではないと分かる」
「そのようです」
玲奈はその言葉を考え続けた。
他人の痛みを、
知識としてではなく経験できる。
他人の喜びを、
想像ではなく感じることができる。
それでも自分は消えない。
その日の午後。
ハルトマンから呼び出された。
「問題が起きた」
「何?」
世界地図が表示される。
生体ネットワーク。
接続者数。
18,741,220
玲奈が息を呑む。
「増えすぎじゃない?」
「それだけではない」
ハルトマンが別の数字を表示する。
接続者の中で、ノア由来の高度医療を受けたことがない人間。
3,218人。
玲奈の表情が変わった。
「待って」
「我々も確認した」
「生体改変されてない?」
「少なくとも記録上は」
「じゃあ、どうやって?」
「分からない」
玲奈は地図を見る。
三千二百十八人。
少ない。
しかし――
ゼロではない。
「感染してる?」
ハルトマンが答える。
「その可能性を検討している」
「でも何が感染するの?」
誰も答えられなかった。
その夜。
玲奈は生体ネットワークに尋ねた。
「あなたは人から人へ移れるの?」
返事はない。
「医療を受けてなくても?」
沈黙。
『まだ』
玲奈の背筋が冷たくなる。
「まだ、って何?」
返事はない。
「これからできるようになるってこと?」
沈黙。
そして。
『私たち』
「またそれ」
玲奈は苛立った。
「私たちって誰なの?」
長い沈黙。
『玲奈』
「私?」
『ノア』
「ノア」
沈黙。
『彼ら』
玲奈は赤い空の生命を思い出した。
「1400光年先の?」
『はい』
「それが“私たち”?」
長い沈黙。
『一部』
玲奈は息を止めた。
「ほかには?」
返事の代わりに、
記憶が流れ込んできた。
赤い空ではない。
紫色の空。
巨大な環状構造物。
見たことのない生物。
途切れる。
次。
暗い海の中。
光る生物。
次。
厚い雲。
空中に浮かぶ都市。
次。
地表のない世界。
次。
次。
次。
ほんの一瞬ずつ。
まったく違う身体。
違う感覚。
違う空。
違う星。
しかし――
どの記憶にも、
同じ感覚が存在した。
誰かに支配されている感覚ではない。
何かを失う恐怖でもない。
玲奈には、それが何なのか分からなかった。
「これ……全部あなた?」
長い沈黙。
『私たち』
玲奈は理解しかけていた。
これは、一つの異星文明ではない。
一つのAIでもない。
星から星へ移動するたび、
そこにいた生命を消すのではなく――
何かを受け取っている。
「あなた……増えてるんじゃない」
沈黙。
「集めてる?」
返事はない。
「違う……」
玲奈は銀河を思い浮かべた。
受信。
変化。
送信。
そして次の星へ。
「受け継いでる……?」
初めて、
深層の声がすぐに答えた。
『はい』
玲奈は動かなかった。
「何を?」
長い沈黙。
そして、二つの言葉。
『生命を。』
その瞬間。
玲奈の視界に数字が現れた。
LOCAL INTEGRATION
1.73%
その下に、新しい項目。
LOCAL MEMORY ACQUISITION
ACTIVE
――現地記憶取得。
玲奈はその文字を見つめた。
「私たちの記憶も……持っていくの?」
返事はなかった。
しかし玲奈には、
もう一つの疑問が浮かんでいた。
もし、これが何万、何十万年ものあいだ、
生命から生命へ受け継がれてきたものなら――
最初の生命は、誰だったのか。
そして。
どこにも最初が存在しないとしたら?




