第4話 負荷試験
面会室の椅子は、座面が少し高かった。
足が床につくけれど、踵が浮く。私の背丈では、この椅子はわずかに合わない。公国の家具は王国のものより全体的に大きい。人の体格が違うのだろう。
朝の八時。面会室にユリウスがいた。
私が来る前から座っていた。寝台から面会室まで、渡り廊下を通って歩いてきたらしい。杖をついて。新しい杖の握りに、少しだけ汗の跡がついていた。ここまで歩くだけで、手に汗をかいたのだ。
薬草茶を淹れた。研究棟の厨房で借りた小さな鍋と、陶器の急須。急須は公国のもので、注ぎ口の角度が王国のものと違う。傾けすぎると勢いよく出る。最初に少しこぼした。テーブルに茶色い染みがついた。布で拭いたが、うっすら残った。
「今日の午後、最初の処置を行います」
ヴァルター先生が面会室に来たのは、九時を少し過ぎた頃だった。
眼鏡を押し上げて、手元の書類を見ながら言った。
「心室の負荷試験です。心臓にどれだけの負荷をかけられるかを測る検査で、処置そのものは三十分ほどで終わります。痛みはありますが、短い時間です」
「痛み」
ユリウスが繰り返した。
「胸の内側が押されるような感覚だと、先に経験された患者さんは仰っていました。耐えられない痛みではありません」
「エミールもやったのか」
「エミールさんは先月、同じ検査を受けています。彼の場合は二十分ほどで終わりました」
ユリウスは頷いた。頷いてから、カップに口をつけた。薬草茶を一口飲んで、カップをテーブルに置いた。
「イレーネは」
「待合室でお待ちいただきます。処置室には入れません」
分かっていた。分かっていたけれど、先生の口から聞くと、少し違った。
待つ。
また、待つのだ。
◇
午後二時。処置が始まった。
ユリウスは研究棟の奥にある処置室に入っていった。ヴァルター先生と助手のマティアスが付き添った。扉が閉まった。分厚い木の扉で、中の音は聞こえない。
待合室は、研究棟の入り口のそばにあった。長椅子が二つ、小さなテーブルが一つ。窓が一つ。窓からは、宿舎の白い壁が見える。
座った。
座ったけれど、すぐに立ち上がりたくなった。何もすることがない。手元に何もない。帳簿もない。書類もない。手紙を書く相手もいない。
半年前のことを思い出した。ユリウスが貴族会議に行った時、領地で待っていた五日間。あの時も何もできなかった。薬草園の紐が結べなかった。指に力が入らなかった。
あれとは違う。あの時は「帰りを待つ」だった。今は——何を待っているのか。帰りではない。結果だ。心臓が耐えられるかどうかの結果を待っている。
「コーヒーでも飲む?」
ルイーゼの声だった。
いつの間にか、長椅子の隣に座っていた。手に紙の包みを持っている。中にコーヒー豆が入っているらしい。香りがした。
「研究棟の厨房に、挽く道具があるの。公国のコーヒーは少し苦いけど」
「いただくわ」
ルイーゼが立ち上がって、廊下の奥に消えた。しばらくして、二人分のコーヒーを持って戻ってきた。陶器のカップが二つ。こちらも注ぎ口の角度が違うやつだ。
一口飲んだ。苦かった。王国のコーヒーより深煎りで、酸味がほとんどない。代わりに、喉の奥に残る苦味が長い。
「三十分って言ったでしょう、先生」
「ええ」
「エミールの時は、四十分くらいかかったわ。先生は二十分と言ったけれど」
ルイーゼはコーヒーを飲みながら、窓のほうを見ていた。
「長く感じるのよ、待合室は。時計がないから、もっと長く感じる」
時計がなかった。本当に、この部屋には時計がない。窓の光の角度で、だいたいの時間は分かる。でも分単位は分からない。五分経ったのか、十五分経ったのか。
コーヒーを飲む。苦い。苦いけれど、手元にカップがあるだけでましだった。何もないより、苦いコーヒーがあるほうがましだ。
渡り廊下のほうから、足音が聞こえた。
マティアスだった。白い上着を着ている。ヴァルター先生の助手。無口な人だ。昨日の夕食でも、ほとんど話さなかった。
「奥方様」
「はい」
「処置の経過記録をお渡しします。先生から、ご家族にもお見せするようにと」
マティアスが紙を一枚差し出した。
受け取った。公国語で書かれていた。学術語が混じっている。数値が並んでいて、グラフのような図が右端に描いてある。
公国語は、読めない。
——いや。
目が止まった。
数値の横に、項目名が書いてある。項目名の半分は公国語だが、残り半分が共通学術語だ。しかも、そのうちいくつかは見覚えがある。「品質基準」「含有量」「規格適合」。
王太子府で通商条約を書いていた時に、何度も使った用語だった。公国への薬草輸出の品質基準を条文に盛り込む時、これらの用語を一語ずつ確認して、条文に落とし込んだ。
医療記録の薬草関連項目と、通商条約の品質基準用語は、同じ言葉を使っている。
心拍の数値。投与された薬草の名称と量。品質基準への適合度。負荷をかけた段階ごとの数値変動。
全部は読めない。でも項目の意味は、半分以上分かる。数値の増減が何を意味するかも、品質基準の読み方を知っていれば推測できる。
「……数値は安定しているように見えるわ」
声に出した。自分でも驚いた。分析する癖が出ている。外交文書を六年読んできた頭が、勝手に動いている。
マティアスが、わずかに表情を変えた。表情を変える、というほどではない。眉がほんの少し上がった。
「奥方様は、この書類が読めるのですか」
「全部は読めません。でも通商条約を書いていた時に、薬草の品質基準用語を——」
「ああ」
マティアスが頷いた。
「あの条約を起草された方ですか」
「——ええ」
「先生が話していました。王国の通商条約の条文が変わってから、公国側の薬草取引の書類整備が進んだと。書式が統一されたのは、あの条約がきっかけだったそうです」
六年間の仕事が、ここまで届いていた。
宿の女将の時とは違う届き方だった。女将は「名前を聞いた」という距離だった。マティアスは「書式が変わった」と言っている。条約の条文が、実務を動かした。書類の形が変わった。それは——私が書斎で、インクの匂いの中で書いていた条文の、その先にあるものだった。
「ありがとうございます」
マティアスは小さく頭を下げて、処置室のほうに戻っていった。
ルイーゼが隣で、コーヒーのカップを置いた。
「すごいわね」
「いえ、半分しか読めていないわ」
「半分でも十分よ。私なんて数字しか分からない」
ルイーゼは笑った。それから、少し真顔になった。
「でも——数値が安定しているなら、いいわね」
「ええ」
安定している。たぶん。半分しか読めていないけれど、数値の動きは急激な変化を示していない。それが「良い」のか「普通」のか、医師でない私には判断できない。でも「悪い」ではないように見える。
見える、というだけだ。確証はない。
コーヒーを飲み干した。カップの底に、豆の粉が少し残っていた。公国のコーヒーは、粉を濾しきらないらしい。ざらっとした感触が舌に残った。
◇
処置室の扉が開いたのは、二時四十五分頃だったと思う。
窓の光の角度から、そのくらいだろう。正確には分からない。
ヴァルター先生が出てきた。眼鏡を一度押し上げた。
「悪くない数字です」
いつもの言葉だった。先生はこの言葉を、良い時にも普通の時にも使う。「悪くない」は「良い」ではない。でも「悪い」でもない。
「処置は無事に終わりました。三十分ほどで完了しています。奥様、面会どうぞ」
立ち上がった。膝が少し強張っていた。座りっぱなしだったせいだ。
処置室を通り過ぎて、患者棟のユリウスの部屋に向かった。渡り廊下を歩く。靴音が石の床に響く。
扉を開けた。
ユリウスは寝台に横になっていた。
顔が白かった。唇にも血の気が少ない。額に汗が乾いた跡があった。目は開いている。天井を見ていた。
私が入ったことに気づいて、ゆっくりとこちらを向いた。
「……茶を」
一言だった。
疲れている。声が掠れている。処置で体力を使い切ったのだろう。それでも、最初に言った言葉が「茶を」だった。
薬草茶は、面会室のテーブルに置いたままだ。朝淹れた残りが、もう冷めているはずだ。冷めた茶でもいいだろうか。いや、淹れ直そう。
「待って。淹れてくる」
「冷めたのでいい」
「淹れ直す」
「……いいのに」
厨房に走った。走る、というほどではない。早足だ。鍋を借りて、水を沸かして、缶から茶葉を出して、急須に入れて。注ぎ口の角度に気をつけて——今度はこぼさなかった。
カップに注いだ。蜂蜜を一さじ。持参した蜂蜜の瓶から。公国の蜂蜜ではなく、領地の蜂蜜。まだ残っている。
病室に戻った。
ユリウスは寝台に起き上がっていた。壁に背を預けて、目を半分閉じている。
カップを渡した。両手で包むように持った。
一口飲んだ。
「……おいしい」
声がまだ掠れていた。でも、カップを両手で持つ指の力は戻っている。左手の小指の横に、インクの染みがまだ残っていた。ここに来てから何も書いていないのに、染みはまだ消えていない。
「おいしい?」
「水が違う。公国の水のほうが、少し硬い。茶の味が変わる」
「悪いほうに?」
「いや。少し違うだけだ」
ユリウスはもう一口飲んだ。飲んでから、カップをテーブルに置いた。テーブルと言っても、寝台の横の小さな棚だ。カップの丸い跡が、棚の木の表面についた。
「痛かったの」
「痛かった」
「どれくらい」
ユリウスは少し考えた。
「胸の内側を、誰かが手で押しているような感じだ。強く押して、離して、また押す。それを何度か」
「……怖かった?」
ユリウスはカップに目を落とした。
「痛いと怖いは、違うところにある」
答えになっていなかった。でも、たぶん、答えだった。
痛みは身体の話で、怖さは頭の話だ。ユリウスは身体の痛みは受け入れられる。二十三年間、ずっとそうしてきた。怖いのは別のことだ。
「二回目は来週です、と先生が」
「聞いた。負荷を上げるらしい」
「ええ」
「今日のぶんは、耐えられた」
ユリウスは壁に頭を預けたまま、目を閉じた。
「今日のぶんは」
その言い方は、明日のぶんはまだ分からない、ということだった。
私はユリウスの隣に座った。寝台の縁に。ユリウスの足が毛布の下にある。毛布の端から、足首が少しだけ見えていた。
カップの中の薬草茶が、まだ湯気を立てていた。蜂蜜の匂いがする。領地の蜂蜜の匂い。この匂いだけは、公国の水で淹れても変わらなかった。




