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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第4話 負荷試験


面会室の椅子は、座面が少し高かった。


足が床につくけれど、踵が浮く。私の背丈では、この椅子はわずかに合わない。公国の家具は王国のものより全体的に大きい。人の体格が違うのだろう。


朝の八時。面会室にユリウスがいた。


私が来る前から座っていた。寝台から面会室まで、渡り廊下を通って歩いてきたらしい。杖をついて。新しい杖の握りに、少しだけ汗の跡がついていた。ここまで歩くだけで、手に汗をかいたのだ。


薬草茶を淹れた。研究棟の厨房で借りた小さな鍋と、陶器の急須。急須は公国のもので、注ぎ口の角度が王国のものと違う。傾けすぎると勢いよく出る。最初に少しこぼした。テーブルに茶色い染みがついた。布で拭いたが、うっすら残った。


「今日の午後、最初の処置を行います」


ヴァルター先生が面会室に来たのは、九時を少し過ぎた頃だった。


眼鏡を押し上げて、手元の書類を見ながら言った。


「心室の負荷試験です。心臓にどれだけの負荷をかけられるかを測る検査で、処置そのものは三十分ほどで終わります。痛みはありますが、短い時間です」


「痛み」


ユリウスが繰り返した。


「胸の内側が押されるような感覚だと、先に経験された患者さんは仰っていました。耐えられない痛みではありません」


「エミールもやったのか」


「エミールさんは先月、同じ検査を受けています。彼の場合は二十分ほどで終わりました」


ユリウスは頷いた。頷いてから、カップに口をつけた。薬草茶を一口飲んで、カップをテーブルに置いた。


「イレーネは」


「待合室でお待ちいただきます。処置室には入れません」


分かっていた。分かっていたけれど、先生の口から聞くと、少し違った。


待つ。


また、待つのだ。



午後二時。処置が始まった。


ユリウスは研究棟の奥にある処置室に入っていった。ヴァルター先生と助手のマティアスが付き添った。扉が閉まった。分厚い木の扉で、中の音は聞こえない。


待合室は、研究棟の入り口のそばにあった。長椅子が二つ、小さなテーブルが一つ。窓が一つ。窓からは、宿舎の白い壁が見える。


座った。


座ったけれど、すぐに立ち上がりたくなった。何もすることがない。手元に何もない。帳簿もない。書類もない。手紙を書く相手もいない。


半年前のことを思い出した。ユリウスが貴族会議に行った時、領地で待っていた五日間。あの時も何もできなかった。薬草園の紐が結べなかった。指に力が入らなかった。


あれとは違う。あの時は「帰りを待つ」だった。今は——何を待っているのか。帰りではない。結果だ。心臓が耐えられるかどうかの結果を待っている。


「コーヒーでも飲む?」


ルイーゼの声だった。


いつの間にか、長椅子の隣に座っていた。手に紙の包みを持っている。中にコーヒー豆が入っているらしい。香りがした。


「研究棟の厨房に、挽く道具があるの。公国のコーヒーは少し苦いけど」


「いただくわ」


ルイーゼが立ち上がって、廊下の奥に消えた。しばらくして、二人分のコーヒーを持って戻ってきた。陶器のカップが二つ。こちらも注ぎ口の角度が違うやつだ。


一口飲んだ。苦かった。王国のコーヒーより深煎りで、酸味がほとんどない。代わりに、喉の奥に残る苦味が長い。


「三十分って言ったでしょう、先生」


「ええ」


「エミールの時は、四十分くらいかかったわ。先生は二十分と言ったけれど」


ルイーゼはコーヒーを飲みながら、窓のほうを見ていた。


「長く感じるのよ、待合室は。時計がないから、もっと長く感じる」


時計がなかった。本当に、この部屋には時計がない。窓の光の角度で、だいたいの時間は分かる。でも分単位は分からない。五分経ったのか、十五分経ったのか。


コーヒーを飲む。苦い。苦いけれど、手元にカップがあるだけでましだった。何もないより、苦いコーヒーがあるほうがましだ。


渡り廊下のほうから、足音が聞こえた。


マティアスだった。白い上着を着ている。ヴァルター先生の助手。無口な人だ。昨日の夕食でも、ほとんど話さなかった。


「奥方様」


「はい」


「処置の経過記録をお渡しします。先生から、ご家族にもお見せするようにと」


マティアスが紙を一枚差し出した。


受け取った。公国語で書かれていた。学術語が混じっている。数値が並んでいて、グラフのような図が右端に描いてある。


公国語は、読めない。


——いや。


目が止まった。


数値の横に、項目名が書いてある。項目名の半分は公国語だが、残り半分が共通学術語だ。しかも、そのうちいくつかは見覚えがある。「品質基準」「含有量」「規格適合」。


王太子府で通商条約を書いていた時に、何度も使った用語だった。公国への薬草輸出の品質基準を条文に盛り込む時、これらの用語を一語ずつ確認して、条文に落とし込んだ。


医療記録の薬草関連項目と、通商条約の品質基準用語は、同じ言葉を使っている。


心拍の数値。投与された薬草の名称と量。品質基準への適合度。負荷をかけた段階ごとの数値変動。


全部は読めない。でも項目の意味は、半分以上分かる。数値の増減が何を意味するかも、品質基準の読み方を知っていれば推測できる。


「……数値は安定しているように見えるわ」


声に出した。自分でも驚いた。分析する癖が出ている。外交文書を六年読んできた頭が、勝手に動いている。


マティアスが、わずかに表情を変えた。表情を変える、というほどではない。眉がほんの少し上がった。


「奥方様は、この書類が読めるのですか」


「全部は読めません。でも通商条約を書いていた時に、薬草の品質基準用語を——」


「ああ」


マティアスが頷いた。


「あの条約を起草された方ですか」


「——ええ」


「先生が話していました。王国の通商条約の条文が変わってから、公国側の薬草取引の書類整備が進んだと。書式が統一されたのは、あの条約がきっかけだったそうです」


六年間の仕事が、ここまで届いていた。


宿の女将の時とは違う届き方だった。女将は「名前を聞いた」という距離だった。マティアスは「書式が変わった」と言っている。条約の条文が、実務を動かした。書類の形が変わった。それは——私が書斎で、インクの匂いの中で書いていた条文の、その先にあるものだった。


「ありがとうございます」


マティアスは小さく頭を下げて、処置室のほうに戻っていった。


ルイーゼが隣で、コーヒーのカップを置いた。


「すごいわね」


「いえ、半分しか読めていないわ」


「半分でも十分よ。私なんて数字しか分からない」


ルイーゼは笑った。それから、少し真顔になった。


「でも——数値が安定しているなら、いいわね」


「ええ」


安定している。たぶん。半分しか読めていないけれど、数値の動きは急激な変化を示していない。それが「良い」のか「普通」のか、医師でない私には判断できない。でも「悪い」ではないように見える。


見える、というだけだ。確証はない。


コーヒーを飲み干した。カップの底に、豆の粉が少し残っていた。公国のコーヒーは、粉を濾しきらないらしい。ざらっとした感触が舌に残った。



処置室の扉が開いたのは、二時四十五分頃だったと思う。


窓の光の角度から、そのくらいだろう。正確には分からない。


ヴァルター先生が出てきた。眼鏡を一度押し上げた。


「悪くない数字です」


いつもの言葉だった。先生はこの言葉を、良い時にも普通の時にも使う。「悪くない」は「良い」ではない。でも「悪い」でもない。


「処置は無事に終わりました。三十分ほどで完了しています。奥様、面会どうぞ」


立ち上がった。膝が少し強張っていた。座りっぱなしだったせいだ。


処置室を通り過ぎて、患者棟のユリウスの部屋に向かった。渡り廊下を歩く。靴音が石の床に響く。


扉を開けた。


ユリウスは寝台に横になっていた。


顔が白かった。唇にも血の気が少ない。額に汗が乾いた跡があった。目は開いている。天井を見ていた。


私が入ったことに気づいて、ゆっくりとこちらを向いた。


「……茶を」


一言だった。


疲れている。声が掠れている。処置で体力を使い切ったのだろう。それでも、最初に言った言葉が「茶を」だった。


薬草茶は、面会室のテーブルに置いたままだ。朝淹れた残りが、もう冷めているはずだ。冷めた茶でもいいだろうか。いや、淹れ直そう。


「待って。淹れてくる」


「冷めたのでいい」


「淹れ直す」


「……いいのに」


厨房に走った。走る、というほどではない。早足だ。鍋を借りて、水を沸かして、缶から茶葉を出して、急須に入れて。注ぎ口の角度に気をつけて——今度はこぼさなかった。


カップに注いだ。蜂蜜を一さじ。持参した蜂蜜の瓶から。公国の蜂蜜ではなく、領地の蜂蜜。まだ残っている。


病室に戻った。


ユリウスは寝台に起き上がっていた。壁に背を預けて、目を半分閉じている。


カップを渡した。両手で包むように持った。


一口飲んだ。


「……おいしい」


声がまだ掠れていた。でも、カップを両手で持つ指の力は戻っている。左手の小指の横に、インクの染みがまだ残っていた。ここに来てから何も書いていないのに、染みはまだ消えていない。


「おいしい?」


「水が違う。公国の水のほうが、少し硬い。茶の味が変わる」


「悪いほうに?」


「いや。少し違うだけだ」


ユリウスはもう一口飲んだ。飲んでから、カップをテーブルに置いた。テーブルと言っても、寝台の横の小さな棚だ。カップの丸い跡が、棚の木の表面についた。


「痛かったの」


「痛かった」


「どれくらい」


ユリウスは少し考えた。


「胸の内側を、誰かが手で押しているような感じだ。強く押して、離して、また押す。それを何度か」


「……怖かった?」


ユリウスはカップに目を落とした。


「痛いと怖いは、違うところにある」


答えになっていなかった。でも、たぶん、答えだった。


痛みは身体の話で、怖さは頭の話だ。ユリウスは身体の痛みは受け入れられる。二十三年間、ずっとそうしてきた。怖いのは別のことだ。


「二回目は来週です、と先生が」


「聞いた。負荷を上げるらしい」


「ええ」


「今日のぶんは、耐えられた」


ユリウスは壁に頭を預けたまま、目を閉じた。


「今日のぶんは」


その言い方は、明日のぶんはまだ分からない、ということだった。


私はユリウスの隣に座った。寝台の縁に。ユリウスの足が毛布の下にある。毛布の端から、足首が少しだけ見えていた。


カップの中の薬草茶が、まだ湯気を立てていた。蜂蜜の匂いがする。領地の蜂蜜の匂い。この匂いだけは、公国の水で淹れても変わらなかった。

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公国語の外交文書が読めてたのでは? 陽の光の角度で時間が15分単位でわかる鉄の令嬢。
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