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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第2話 おかえり


馬車に揺られて三日。背中が痛い。


街道沿いの宿は二泊とも寝台が硬くて、枕は薄くて、壁の向こうから商人らしき男の鼾が聞こえていた。王太子府の寝室とは比べものにならない。


けれど不思議と、よく眠れた。


三日目の朝、荷物を確認した。着替えは最低限。宝飾品は母の形見の耳飾りだけ。あとは外交文書の控えが詰まった革の鞄と、ユリウスからの手紙の束。


手紙は重い。十四年分だ。紐で括ってあるのに、鞄の底で少しずつ崩れて広がっていく。何度直してもそうなるから、もう諦めた。


窓の外の景色が変わった。


王都を離れるにつれて、畑が増え、森が深くなり、空が広くなった。街道の石畳がいつの間にか土の道に変わっている。馬車の揺れ方が柔らかくなった。


午後の光が傾き始めた頃、御者が声をかけてきた。


「お嬢様、エーレンベルクの領境に入りました」


窓から身を乗り出す。


小さな村が見えた。石造りの家が並び、畑の縁に薬草らしい緑が揺れている。子どもが二人、馬車に向かって手を振っていた。


思ったより——明るい場所だ。


辺境と聞いて、もっと寂しい土地を想像していた。手紙では「小さな領地だ」としか書いてこなかったから。ユリウスは自分のことを小さく書く癖がある。昔からそうだった。


伯爵邸は、丘の上にあった。


大きくはない。王都の公爵邸と比べたら、離れの棟ほどだ。でも壁は白く塗り直されていて、窓辺に赤い花が並んでいた。


馬車が止まる。


玄関の前に、人が立っていた。


杖をついている。右手で杖を握り、左手は軽く後ろに組んで。栗色の髪が風に揺れていた。


六年ぶりの、ユリウス。


手紙の字は覚えていたけれど、顔は記憶の中でぼんやりしていた。十六歳の頃に一度だけ父の用事で訪ねて以来だ。あの頃より背が伸びて、顎の線が少し鋭くなっている。


でも、目は変わっていなかった。


少し眠そうで、少し困ったような目。笑っているのか考え事をしているのか、よくわからない目。手紙を読んでいる時にいつも想像していた目が、そこにあった。


「おかえり、イレーネ」


低い声だった。


王太子府では誰もそんなふうに私の名前を呼ばなかった。殿下は「イレーネ」と呼ぶとき、いつも何かの前置きだった。報告しろ、処理しろ、手配しろ。名前の後には必ず用件がついてきた。


ユリウスの「イレーネ」には、何もついてこなかった。


名前だけが、そこにあった。


「……ただいま、ユリウス」


声が掠れた。泣きそうだったわけではない。三日間、ほとんど誰とも話さなかったから、喉が慣れていなかっただけだ。


たぶん。


部屋に案内された。


二階の東側。窓からは薬草園が見える。白い壁に、木の床。調度品は少ないけれど、清潔で、日当たりがいい。


机の上に、薄紫の花が小さな瓶に生けてあった。


ラベンダーだ。


三年前の手紙に書いたことがある。母が好きだった花で、香りを嗅ぐと少しだけ安心するのだと。書いたことすら忘れていた。覚えていたのか、この人は。


「お嬢様」


振り向くと、年配の侍従が立っていた。白髪交じりの穏やかな顔。オットーと名乗った。


「お部屋のお加減はいかがでしょう。何かございましたら何なりと」


「十分です。ありがとうございます」


「よろしゅうございました。坊ちゃまは三日ほど前からお部屋を整えておいででして。花は何がよいかと随分悩んでおられましたよ」


言ってから、しまったという顔をした。余計なことを言ったと思ったのだろう。小さく咳払いをして、「では、夕食の準備を致します」と足早に去っていった。


三日前。


私が馬車に乗った日だ。いや、手紙を出した日かもしれない。どちらにしても——待っていてくれたのだ。部屋を整えて、花を選んで。


ラベンダーの瓶に指で触れた。瓶はひんやりとしていて、花は少しだけ萎れかけていた。三日前に切ったのなら、そうなる。


水を替えよう、と思った。


夕食は居間でとった。


ユリウスと二人きりだった。テーブルは小さくて、向かい合うと膝が当たりそうな距離だ。王太子府の長い長い食卓に慣れていた私には、少し落ち着かない。


料理は素朴だった。豆のスープに黒パン、焼いた川魚、茹でた芋。公爵家の食事と比べれば質素だけれど、温かかった。王太子府では、私の皿はいつも少しだけ冷めていた。殿下とマリエル嬢に先に配膳されるからだ。


ここでは全部、同時に出てくる。


ユリウスは何も聞かなかった。


なぜ来たのかも、殿下とどうなったのかも。パンをちぎりながら、「道中は揺れただろう。あの街道は春先が一番ひどい」とだけ言った。


「……ええ、少し」


「宿はどこに泊まった」


「ハーゲンの村と、街道沿いの旅籠と」


「ハーゲンは枕が薄い」


「わかるの?」


「僕も一度泊まったことがある。二度目はないと思った」


少しだけ笑った。笑い方が下手だった。口の端だけが上がって、目はあまり動かない。でも嫌な感じはしなかった。


食後に、ユリウスが立ち上がった。


棚から小さな缶を取り出して、茶器に湯を注ぐ。薬草の匂いが広がった。甘い、花の香り。


手紙に書いてあった、あの配合だ。


ユリウスは私の前にカップを置いた。


「飲め」


一言だった。


お茶の淹れ方とか、配合の説明とか、そういう前置きは何もなかった。ただ目の前に置いて、「飲め」と言っただけだ。


カップを両手で包んだ。陶器の温かさが指先に伝わる。


一口飲む。


甘い。少しだけ苦みがあって、後味にかすかな酸味が残る。母が好きだったラベンダーの香りに似ているけれど、もう少し柔らかい。


「……おいしい」


「そうか」


ユリウスは自分のカップに口をつけて、窓の外を見た。


もう暗くなっていた。虫の声が遠くに聞こえる。王都では聞こえない音だ。


何も聞かれなかった。何も説明を求められなかった。六年間ずっと、誰かのために説明し続けてきた私に、この人は「飲め」とだけ言った。


肩の力が、少しだけ抜けた気がした。


気がしただけかもしれない。六年分の力の入れ方を、一晩で忘れられるはずがない。


でも——薬草茶は、温かかった。


その頃、王都では。


王太子府の側近ハインリヒは、外交省から届いた書類の束を抱えて執務室に駆け込んでいた。


「殿下、至急ご確認いただきたい書類がございます。隣国への返答期限が——」


ルドヴィクは窓辺に立ったまま、振り向きもしなかった。


「後でいい」


「しかし、先方の要求書に対する条文の照合が——この箇所、通常であれば事前に整理されているはずなのですが」


ハインリヒは書類を広げ、そして止まった。


第三条の但し書きに、明らかな引用ミスがある。条約の年号が一つずれていた。こんな初歩的な誤りは、今まで一度も——


「……これ、いつもレーヴェンシュタイン嬢が確認していた箇所では」


声に出してから、ハインリヒは口を噤んだ。


ルドヴィクの背中が、ほんの少しだけ強張ったように見えた。見えただけかもしれない。


「直しておけ」


王太子は、窓の外を見たまま言った。


ハインリヒは書類を抱え直した。直せと言われても、条約文の照合をしていたのは自分ではない。あの仕事を引き継いだ者は、まだいない。


いや——引き継ぎすらなかったのだ。


イレーネ・フォン・レーヴェンシュタインは、すべてを整えてから去った。けれど「すべて」の中に、やり方の説明は含まれていなかった。


彼女は六年間、教わることなく一人でやっていたのだから。

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