(最終話) 定年の日
三月三十一日。真壁鉄雄の、定年退職の日だった。
もっとも、書類の上の真壁鉄雄はとうに死んでいるから、辞令も花束もない。セーフハウスの台所で、小田切が買ってきた安いシャンパンを二人で開けただけだ。乾杯の音頭は「三十四年と九十二日、お疲れさまでした」だった。九十二日を数えているあたりが、小田切らしかった。
「それで、真壁さん。アルテミスから連絡が来ています。復元手術の枠、いつでも取れると」
元の身体に戻る。五十八歳の、膝の痛む、目つきの悪い爺の身体に。戻って、年金をもらって、張り込みのない余生を送る。九十二日前の俺が望んでいた、はずのものだ。
「……一つ、聞かせろ。今回の事件、組織は潰したが、手口は残る。ああいう商売は、また立つんだろう」
「立ちます」小田切は即答した。「実際、もう類似の相談が三件。それと──上が、今回の結果を見て、囮捜査の専従班を作る案を出しています。もっとも、囮のなり手がいませんが」
なり手がいない。そうだろう。存在を消され、名前を捨て、身体まで作り替えて、視線と手首の痕を装備と呼んで飲み込む仕事だ。なり手など、いてたまるか。
俺はシャンパンを一口飲んだ。若い身体は、相変わらず酒に弱い。天井が少し回る。回る天井の向こうに、団地の階段の小学生と、施設の廊下の大人のひかりと、消えた十四人の顔写真と、小田切の同期の話が、順番に浮かんだ。
三十四年。俺の刑事人生は、ああいう顔を一枚でも減らすためにあったはずだ。それは、定年で終わるものだったか?
「──小田切。復元は断る、と伝えろ」
小田切はグラスを持ったまま、瞬きを二つした。
「専従班とやらに、なり手が一人いる。三十四年物の張り込みの技術と、九十二日物の女の身体だ。装備は揃ってる」
「……本気ですか。定年ですよ」
「真壁鉄雄はな。──氷見アヤは二十五だ。定年まで、あと三十五年ある」
小田切は、しばらく黙った。それから、堪えきれずに吹き出して、グラスを掲げた。
「……専従班・氷見アヤ捜査官の、着任に」
グラスが、軽い音を立てた。
かくして、この国のどこにも記録のない一人の女刑事が誕生した。階級なし、名簿なし、表彰もなし。あるのは、消えるはずだった女たちが今日も日常を歩いているという、誰にも数えられない実績だけだ。
それでいい。張り込みの成果は、静かなほうが本物なのだ。
俺は今日も、雑踏のどこかで網を張っている。
もし街で、やたら目つきの悪い美人とすれ違ったら──それは、たぶん俺だ。
「TS囮捜査官」、これにて完結です。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
定年まで92日だった男の張り込みは、まだ続いています。もし街で、やたら目つきの悪い美人とすれ違ったら——それは、たぶん彼です。
楽しんでいただけましたら、☆評価とブックマークをいただけると嬉しいです。完結作品への評価は、次の読者さんへの道しるべになります。
拙作はほかに、完結済みの『TS秘書室』『中身がおっさんの女子大生、無自覚にサークルを潰し続ける』『名前のない女』があります。すべて「アルテミス医科学」がどこかに関わる、ゆるやかな同一世界の物語です。よろしければ作者ページからどうぞ。




