第1.6章:またしてもの脱出計画、そのしっぺ返し。
看護師は手を伸ばし、猫背気味の彼の肩をぎゅっと掴んだ。
「ん?」
彼は小さく呟いた。
そして振り返る。
「あわっ! 驚かせてしまってすみません。少しお話してもよろしいですか? その前に、あなたのバッジはどちらに?」
彼女はベッドシーツを胸元にしっかり押さえながら、そう尋ねた。
「ば、ばば、バッジですか!? 先ほど昼食を取っていた時に、職員室に置いてきてしまいまして……。大変申し訳ございません、すぐに取ってまいります」
彼女は指をさらに深く肩へ食い込ませ、彼が逃げることを許さなかった。
そして、柔らかい声で、けれど深い不安を滲ませながら口を開いた。
彼は床を見つめたまま、絶対に目を合わせようとしなかった。
声を落とし、情けなくひび割れた囁きで言う。
「……あの……実は、さっき少し嘘をつきました。はは……」
その声は、信じられないほど哀れで、罪悪感に満ちていた。
「患者さんの世界が終わるような悲鳴を聞いて、“ほとんど漏らしそうになった”と言いましたが……その……実際には、漏らしました。聞かれていないのは分かっておりますが、正確に言うと、僕のバッジはその汚れた制服についたまま、除染用ランドリーにありまして……。それで、近くの棚にあった予備のスクラブを、とにかく急いで着たんです。どうか、他の方には言わないでいただけると……」
「なるほど。では、私が言おうとしていたのは――」
彼は彼女の言葉を遮った。
震える指を弱々しく彼女へ向ける。
汗が文字通りぼたぼたと流れていて、床のタイルを命綱みたいに見つめたまま、彼は次の言い訳をぎこちなく絞り出した。
「あ、あと……その……失礼ですが……毛布が肩からずれています。見えてしまいます……」
「ひぐうううっ! 見ないでください! なんでこの毛布、こんなに滑るんですか!?」
彼女は悲鳴を上げ、顔を完全にトマトみたいに真っ赤にしながら、毛布を顎の下まで一気に引き上げた。
「ええと、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません。それでは――」
彼はまたしても彼女の言葉を遮り、情けなく、辱められたようなぎこちないお辞儀をした。
「では、あなたがご希望された通り、バッジをお見せするために、僕は洗濯室へ行ってまいります。すぐ戻りますので。失礼いたします」
彼は頭を低くしたまま、扉の方へ慌ただしく逃げようとした。
彼女が彼の――いや。
僕の肩を掴んだ。
またしても、腹立たしいほどしつこく。
もう演技はうんざりだ。
痛みという概念そのもので僕を拷問した、この人間地獄みたいな場所から逃げるだけでは足りなかった。
僕はもう、こんなことはしない。
しないしないしないしないしないしないしない。
絶対にしない。
死にたくない。
家に帰りたい。
この忌まわしい何かが何であろうと、どれほど不利な状況が僕の前に立ちはだかろうと、僕は必ず脱出する。
僕をここに閉じ込められると思うなよ。
聞こえているか。
僕はお前らのゲームなんかに乗らない。
来いよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!
僕はここでは死なない!!!!
……たぶん。
そうであってほしいと、救いようもなく願っている。
だが偶然にも、幸運の神そのものによって!
僕はまだ終わっていない。
彼女はそこまで強く握っているわけではなかった。
なのに、僕の鎖骨は今にも真っ二つに折れそうなくらい痛んだ。
「一つだけ、質問があります」
「う、ううう……はい? 聞きましょうか?」
「その患者は、三年間昏睡状態でした。魔法生命維持装置の下でそれほど長く身体が休眠していると、マナ状態は絶対基礎値までリセットされます。その結果、マナネシアが起こるんです」
「マナネシア? 三年間の昏睡? あと、この服は本当に、完全にランダムな洗濯物から拾っただけなんですが」
「患者は、自分の核となる人格、基本的な運動機能、通常の記憶は保持します。けれど、より複雑で基盤的な深層記憶は封じられます。特に、高度な認知統合……たとえば、高度なルーン方言の読解能力などです。彼にとって、あのラベルは文字には見えないはずです。ただの意味不明な曲線の集まりにしか見えない。では……彼はどうやって、投げるべき瓶を正確に知ったのでしょう?」
ルーン方言?
僕はそもそも魔法言語なんて習った覚えがない。
忘れる以前に、覚えた記憶すらない。
まあ、いい。
看護師がそう言うなら、そういうことなのだろう!
「それは簡単です。彼は読む必要なんてありませんでした。廊下の同僚から聞いたのですが、彼はあなたが医師にそれを使った時、起きていたそうです。あなたが“反転ポーション”と言ったのを聞いて、その見た目だけを覚えていたのでしょう」
彼女は首を傾げた。
その目が、僕を貫くように見つめてくる。
「それは不可能です。医師も私も、そのことを誰にも話していません。この部屋で何が起こったかを知っているのは、私と、医師と、患者だけです」
「……」
「監視カメラです……。職員室のセキュリティモニターで見ました。だから僕は――」
「この棟のカメラは、一週間前から壊れています」
「はい? だから何ですか!? それでは、どうして僕が患者だと分かったのかの説明には――」
「腕の噛み跡です。覚えていますよね? 私は、跡が残るくらい強く噛みました」
「……」
胃が、靴の中まで落ちたような気がした。
けれど、僕が一歩後ろへ下がった瞬間――
「うわっ――!」
僕の足は完全に崩れ落ちた。
僕は鈍くさいガリ勉みたいに派手に暴れ、両腕をめちゃくちゃに振り回した。
その手が金属製のベッドサイドテーブルを乱暴になぞり、重たいガラスの花瓶を、わざと、端から叩き落とす。
彼女の反射神経は、正直ありえないほど不公平だった。
彼女は即座に身を乗り出し、素手を伸ばし、落下する重いガラスを空中でがしっと掴み取った。
完璧に受け止めた。
だが、僕は本当はバランスなんて崩していない。
彼女の指がガラスに触れた、まさにその瞬間。
僕の鈍くさい間抜け芝居は、完全に消えた。
僕は腕を一気に振り下ろし、彼女の手首を掴んだ。
あまりに乱暴に掴んだせいで、自分の肩にまで痛みが走る。
彼女の脳が状況を理解するより早く、僕はその手を――そして彼女が掴んだ重たいガラスの花瓶を――自分の額へ向かって思い切り引き寄せた。
ガシャァァァン!
ガラスが、僕の額で砕け散った。
強烈で、吐き気がするほどの痛みが頭に走り、熱い血が一気に顔を伝って流れ落ちる。
僕は口を大きく開け、全力で叫ぶために息を吸い込んだ。
彼女を嵌めるつもりだった。
錯乱した半裸の看護師が、無実の職員を襲った。
しかも最高の飾りつけとして、花瓶には彼女の指紋が綺麗に残っている。
へへへへへ。
これでようやく逃げられる。
家に帰れる。
僕はこんなこと望んでいなかった。
もう二度と、ここで死にかけるなんてごめんだ!!!!!!!!
「警備! こい――」
何も出なかった。
僕は本気で声帯を動かそうとした。
だが喉が完全に閉じてしまった。
そして部屋の中は、完全な無音に満たされた。
僕は硬直した。
目が飛び出そうなほど見開かれる。
自分の喉に手を当て、息を吸おうとする。
けれど、僕の頭の周りから、音そのものが消えていた。
僕は看護師を見た。
彼女は一歩も動いていなかった。
手を差し出したまま。
二本の指先だけが、紫色の魔力でぼんやりと光っている。
沈黙魔法。
彼女は何かを呟いていた。
だが、なぜ彼女は喋れる?
なぜ僕だけが喋れない?
ガラスが割れた瞬間でさえ、彼女はまったく動揺していなかった。
僕が手を動かした、その文字通り一瞬で、彼女は魔法を発動していたのだ。
「本当にごめんなさい、レン……くん。睡眠魔法」
レン……?
くん……?
な……なんで……。
あ、ぐ……。
僕は魔法に必死に抗った。
意識の中で、眠るな、眠るな、眠るなと叫び続けた。
けれど身体は即座に僕を裏切った。
膝が崩れる。
馬鹿みたいに白い病室が、横へ大きく傾いた。
視界は重く、真っ黒な闇の底へ一気に沈んでいく。
どさり。
やっぱり、ここは地獄なのかもしれない。




