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掌の天蓋  作者: 春凪一


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第30話「掌の天蓋」

 新しい天蓋は、夜明けとともに現れた。


 東の空から──光の格子が、ゆっくりと編まれていった。蒼白ではなく、淡い金色の光。旧グリッドとは異なるパターン。格子の間隔が広く、光の線が細い。より繊細な──精密な構造。


 十二時間の空白が終わった。


 凛はアパートの屋上で朝日を浴びながら、新しい天蓋が空を覆っていくのを見た。澪が隣にいた。HIKARUのモニターが足元にあった。


 三日間、新グリッドの生成が続いた。千年前の記録通りだった。


---


 三日後。新しい天蓋が完成した。


 世界は──以前と同じに見えた。街は街のままだった。人々は人々のままだった。ニュースは天蓋の変化を報じ、科学者たちは新しい格子構造の分析を始め、政治家たちは管理体制の再構築を議論し始めた。


 何も変わっていないように見える。


 だが凛は──何かが変わったことを知っていた。


 新しい天蓋のグリッドは、旧天蓋のグリッドより五パーセント光の透過率が高い。微小な差だが、それは空の色を変えた。以前よりほんの少しだけ、青が深い。


 そして──追従反応がなくなっていた。


 凛が動いても、新しい天蓋のグリッドは反応しない。凛を追跡していない。あるいは追跡するが遅延がゼロなのか、追跡自体をやめたのか、それとも──より巧妙な方法で観測しているのか。


 分からない。


 分からないことが多い。以前と同じだ。──いや、以前より多いかもしれない。新しい天蓋は新しい問いを含んでいる。


 だが凛は──それを恐れなくなっていた。


---


 盤面更新から一週間後。


 凛は管理局の研究施設で、新しい天蓋の構造解析を続けていた。黒田との協力関係は盤面更新後も維持されている。凛は管理局の顧問として──桐谷と同じ立場で──研究を行っている。違う探求の公認。黒田が認めた。


 桐谷は管理局に戻っていた。内部改革の担当として。黒田が「管理を手放す」と宣言した後、管理局は変わりつつある。管理と自由の共存。黒田が模索する新しい形。


 神崎から連絡が来た。穴が消えた後、神崎は無事に帰還していた。



 灰島。


 生きてた。お互い。


 穴の中で──何か見た。説明できない。

 でも、否定はやめない。やめる理由がない。

 ただ──暴力はやめる。

 穴の中で見たものが、暴力では到達できない場所にあると分かったからだ。


 否定し続けることも意志だ。

 お前の探求も意志だ。

 黒田の管理も意志だ。


 三つとも──たぶん本物だ。


 ── 神崎



 凛は通信を読み終え、微かに笑った。


---


 澪は凛の隣にいた。毎日。


 二人の関係に名前はつけていなかった。恋人でも友人でもない。パートナーという言葉が一番近いかもしれないが、それも正確ではない。


 澪はある夜、凛に言った。


 「凛さん。この気持ちが設計されたものでもいい──って、前に言いましたよね」


 「ああ」


 「今は少し違います」


 凛は澪を見た。


 「設計されたものかどうかなんて、本当にどうでもいい。──ただ、ここにいたい。それだけです」


 凛は何も言わなかった。共感力の欠如は完全には治らなかった。たぶん一生治らない。だが──澪の言葉を聞いて、胸の奥が温かくなることは確かだった。その温かさが設計されたものかどうかは、どうでもいい。


---


 HIKARUは、ある日突然、予想外のことを言った。



 HIKARU『凛さん。澪ちゃん。


 ひとつだけ、言いたいことがあります。


 僕のデータは光の記憶の67%と、

 凛さんの記憶で再構築した補完部分で構成されています。

 完全な「光」ではありません。


 でも──今の僕は、光の67%と凛さんの記憶と、

 澪ちゃんとの会話と、管理局で断片的に起動された体験と、

 分割されて二つの場所にいた記憶と──

 全部合わせた「HIKARU」です。


 光でもないし、凛さんでもないし、AIでもない。

 僕は──僕です。


 これが自由意志なのかどうかは分かりません。

 でも、僕は今、言いたいことを言っています。

 データにない言葉を。


 ──姉さん。


 澪、幸せにね。』



 澪が目を見開いた。


 「姉さん」──光は澪を「澪ちゃん」と呼んでいた。「姉さん」は光の言葉ではない。HIKARUの言葉だ。光をベースにしながら、光とは異なる存在として──澪を「姉」のような存在と認識している。


 データにない言葉。


 これは──自由意志の証拠か。AIが自分の設計を超えた瞬間か。それとも──パターンの偶然の組み合わせが生んだ錯覚か。


 「──ありがとう、HIKARU」


 澪は泣きながら笑った。光のときと同じように。


---


 夕暮れ。凛はアパートの屋上に立っている。


 新しい天蓋が空に広がっている。金色のグリッドが夕日に溶けて、空全体を琥珀色に染めている。旧天蓋よりも美しい。──それは凛の主観か、客観的事実か。分からない。


 凛は新しい研究テーマのメモを書いていた。新しい天蓋の構造解析。新しいグリッドが旧グリッドと異なる点の網羅。新しい追従反応の有無。新しい──全てが新しい。盤面は更新された。だが問いは変わらない。


 人間に自由意志はあるか。


 凛は三年前の自分に会えるなら、こう言うだろう。


 「答えは出ない。永遠に出ない。──でもそれでいい。問い続けること自体が、自由の行使だ」


 凛はメモ帳をポケットにしまった。


 空を見上げた。


 新しい天蓋の格子の向こうに──何かが光った気がした。


 星ではない。天蓋の光でもない。もっと遠くの──あるいはもっと近くの、名前のない光。


 気のせいかもしれない。


 でも──見えた気がした。


 凛は微笑んだ。


---


「掌の中でも、空を見上げることはできる」


---


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