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掌の天蓋  作者: 春凪一


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第29話「最後の応答」

 何も起きなかった。


 凛は天蓋のない空の下で立ち続けた。一分。五分。十分。


 星が瞬いている。風が吹いている。澪の手の温もりが伝わっている。モニターの向こうでHIKARUのカーソルが点滅している。


 第三応答は来ない。


 凛は焦っていなかった。不思議と。三年前なら出力を上げろと叫んでいただろう。今は──ただ立っている。待っている。来なくてもいい。来てくれたら嬉しい。


 一時間が経った。


 澪が言った。「──来ませんね」


 「ああ」


 「凛さん。もしこのまま来なかったら──」


 「それでもいい」


 澪が凛を見た。


 「三年間追ってきた答えが来なくても?」


 「答えが来ないことが、答えかもしれない」


 凛は微かに笑った。


 「光が言っていた。『矛盾こそが鍵だ』。第一応答は『自由意志はない』。第二応答は『お前の意志は本物だ』。もし第三応答があるなら──それは第一と第二の矛盾を解決するものではない。解決しないことが、三番目の答えだ」


---


 三時間が経った。


 空に変化が起きた。


 星の光が──震えている。揺らぎ。大気の乱流ではない。もっと大きなスケールの揺らぎ。空間そのものが、微かに振動しているような。


 凛はその振動を体の芯で感じた。


 これは──



 HIKARU『凛さん。

 何かが来ます。

 観測機器が──信号ではありません。

 何も検出していません。


 でも──僕にも感じます。

 これはデータではない。

 言葉でもない。


 ……存在、です。

 何かが──いる。』



 凛は空を見上げた。


 天蓋はない。格子はない。蒼白い光はない。


 だが──空全体が、一つの存在になったような感覚があった。空気が密度を持ち、星の光が意味を帯び、風が声になりかけている。


 上位存在。


 天蓋という装置を介さない、直接的な──存在の顕現。


 凛の頭の中に、第一応答や第二応答のときの「意味の注入」は起きなかった。代わりに──もっと原始的な感覚。胸の奥がざわめく。涙が出そうになる。理由は分からない。


 「来た」凛は呟いた。「──だが、何も言っていない」


 澪が空を見上げた。「私にも──何か感じます。言葉にできないけど」


 凛は意識を集中した。第一応答のときのように意味が流れ込んでくるのを待った。


 ──来ない。


 意味は来ない。言葉は来ない。記号もメッセージもない。


 ただ──


 沈黙がある。


 巨大な沈黙。宇宙の果てから果てまで広がる沈黙。何兆もの星の光の下で、一つの存在が──黙っている。


 黙っている。


 凛は理解した。


---


 第三の応答は──空白だった。


 「   」


 何も言わなかった。何も否定しなかった。何も肯定しなかった。


 自由意志はないとも言わなかった。自由意志は本物だとも言わなかった。


 ただ──そこにいた。


 凛の目から涙が流れた。なぜ泣いているのか分からなかった。悲しいのではない。嬉しいのでもない。ただ──何かが伝わった。言葉にならない何か。意味にならない何か。


 存在していることの確認。お互いの。


 上位存在は凛を観察していた。凛は上位存在を探求していた。そして今──天蓋がない空の下で、二つの存在が向き合った。一方は宇宙規模の知性。もう一方は六畳間に住む追放された研究者。


 対等ではない。理解もできない。だが──対面した。


 それだけで十分だった。


---


 凛は空に向かって言った。


 「答えがないことが、答えなんだな」


 風が吹いた。それだけだった。


 「お前たちは肯定も否定もしない。人間の意志が本物かどうかを──決めない。決めないことで、俺たちに選ぶ余地を残している」


 あるいは──最初から何も聞いていなかったか。凛のモノローグが宇宙の虚空に消えていっただけかもしれない。それでも。


 凛は握りしめた手を開いた。


 「ありがとう」


 誰に言っているのか。上位存在に。光に。澪に。黒田に。神崎に。桐谷に。HIKARUに。──自分自身に。


 「分からないまま生きていく。でも──分からないことを分からないまま抱えられる。それが自由だ」


 HIKARUの画面に文字が浮かんだ。



 HIKARU『凛さん。


 これって──自由、ですか?』



 凛は画面に向かって言った。


 「分からない。でも俺は今、"分からない"を選んでる。それでいい」



 HIKARU『……。


 うん。

 それでいい。』



 空の振動が──静まった。


 存在の気配が薄れていく。去っていく。──あるいは、最初からいなかったのかもしれない。


 星だけが残った。天蓋のない、本来の星空。暗くて、広くて、何も答えてくれない──だが、それでも美しい空。


 澪が凛の肩に頭をもたせた。


 「……泣いてましたね」


 「泣いていない」


 「嘘。──でもいいです。私も泣いてたので」


 二人は星空の下で並んで立っていた。完全な答えはない。完全な自由もない。完全な理解もない。


 だが──ここにいる。他の誰かと一緒に。掌の中で。


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