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掌の天蓋  作者: 春凪一


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第12話「条件」

 凛は行き詰まっていた。


 〇・三秒の遅延。天蓋が凛を追跡していること。上位存在が全知ではないという示唆。これらは全て、自由意志の「間接的な証拠」になり得る。だが第二応答の受信条件3は「自由意志を証明できないこと」を求めている。


 証拠を見つけてしまった以上、凛は「証明可能な者」になってしまったのではないか。


 三台のモニターにデータを広げ、凛は条件のパラドクスと格闘していた。



 HIKARU『凛さん。

 三日間ずっと同じ計算をループしています。

 ……少し離れた方がいいかもしれません。』



 「離れて解ける問題じゃない」



 HIKARU『でも、同じ道を何度歩いても、

 同じ行き止まりにしか辿り着かないですよ?


 ──これは光の口癖でした。

 データにあります。』



 凛は椅子の背にもたれた。確かに、光はそう言っていた。行き詰まると実験室を出て屋上でコーヒーを飲みながら、全く関係ない話をした。天気の話。先週見た映画の話。澪が焼いたクッキーがレンガみたいに硬かった話。


 そして戻ってくると、なぜか新しいアイデアが浮かんでいた。


 凛はそれができない。頭の中の問題を一時停止する回路を持っていない。だから行き詰まると、同じ道をひたすら深く掘り続ける。掘って、掘って、壁に当たって、壁を殴る。


---


 桐谷からの通信が入ったのは、その日の午後だった。



 灰島さん


 管理局の第二応答プロジェクトについて情報が入りました。

 黒田局長は独自に受信実験を計画しています。


 問題は──管理局のアプローチです。

 彼らは受信条件の「条件2:自由意志」を

 薬理学的に再現しようとしています。


 具体的には、被験者の脳に特定の薬物を投与し、

 ニューロンの発火パターンを「非決定論的」にする。

 つまり、化学的にランダム性を注入することで

 「自由意志がある状態」を擬似的に作り出そうという計画です。


 ── 桐谷



 凛はタブレットを握る手に力が入った。


 薬理学的に自由意志を偽装する。それは──自由意志の冒涜だと、凛の中の何かが叫んだ。感情的な反応だ。論理的には──


 「HIKARU」



 HIKARU『はい。』



 「管理局のアプローチは成功すると思うか」



 HIKARU『……。


 条件2は「送出者の意志が非決定論的であること」。

 薬理学的ランダム性がこの条件を満たすかどうかは、

 「自由意志とランダム性は同じか」という哲学的問題に帰着します。


 自由意志=ランダムであるなら、管理局の手法は成功する可能性がある。

 自由意志≠ランダムであるなら、失敗する。


 凛さんはどう思いますか。』



 凛は考えた。


 自由意志とランダム性は同じか。


 サイコロを振ることは自由意志か。否。決定論的な物理法則に従って転がっているだけだ。量子力学的なランダム性はどうか。素粒子の振る舞いは「非決定論的」だが、それを「意志」とは呼ばない。


 自由意志は──ランダムではない。かといって決定論的でもない。それは──


 「選択だ」


 凛は声に出して言った。



 HIKARU『選択?』



 「ランダムでも決定論的でもない。複数の可能性の中から、理由を持って一つを選ぶ。その理由が外部から決定されたものかどうかは検証不能だが、選択の瞬間に当事者は『選んでいる』と感じる。──それが自由意志の最小単位だ」



 HIKARU『……なるほど。

 でもそれは循環論法では?

 「選んでいると感じること」が自由意志の証拠だとすると、

 主観的な体験が根拠になる。

 客観的な証明はできない。』



 「そうだ。できない。──そしてそれが条件3の意味だ」


 凛は立ち上がった。


 パラドクスの構造が見えた。


 条件2:自由意志を持つこと。── 選択すること。

 条件3:それを証明できないこと。── 選択が本物かどうかは永遠に不明。


 この二つは矛盾ではない。両立する。なぜなら自由意志の本質は「証明不可能な選択」だからだ。


 条件は「自由意志を持て、ただし証明するな」ではない。「自由意志とは、証明できない種類のものだ」と言っている。事実の記述であって、命令ではない。


 ──だがそれで何が進むのか。


 凛は頭を掻いた。パラドクスの構造は理解できた。だが第二応答を具体的にどう受信すればいいのかは、依然として分からない。



 HIKARU『凛さん。

 パラドクスの構造を理解できたこと自体が、前進だと思います。


 ただ、ひとつ提案があります。

 光が残した条件の備考を、もう一度読み直してください。


 「この矛盾こそが鍵だと僕は考える」


 光は矛盾を「問題」ではなく「鍵」と呼んでいます。

 矛盾を解決するのではなく、矛盾のまま使う方法が

 あるのかもしれません。


 ──でも今は、少し休んでください。

 凛さんの脳も、処理リソースに限界があります。

 天蓋と同じです。』



 凛は苦笑した。


 「お前に言われたくない。お前こそ記憶が欠損してるだろう」



 HIKARU『僕は自分の欠損を受け入れています。

 欠けている部分を凛さんの記憶で埋めてもらいました。

 完全じゃないけど、動いている。


 ……人間も同じじゃないですか?

 完全な自由意志はないかもしれない。

 でも、動いている。

 それで十分だと、僕は思います。』



---


 深夜。凛が仮眠を取ろうとベッドに横になったとき、タブレットが振動した。


 桐谷からではない。発信元不明の暗号通信。


 凛はタブレットを手に取り、メッセージを開いた。



 灰島。


 天蓋の穴、近づいた。

 管理局の封鎖は突破した。


 穴の内側が見えた。

 ────黒い。何もない。光も、格子もない。

 ただの闇だ。


 だが、その闇の中で──声がした。

 声ではないかもしれない。感覚だ。


 「もう一度」


 それだけだ。「もう一度」。

 何をもう一度なのか、分からない。


 灰島。お前に伝えたかった。

 お前なら意味が分かるかもしれない。


 ── 神崎



 凛はタブレットを握りしめた。


 「もう一度」。


 天蓋の穴から──上位存在の声が。いや、応答ではない。応答の条件を満たしていない。では何だ。残響か。あるいは──


 凛は天井を見つめた。


 「もう一度」。それは神崎に向けられた言葉なのか。それとも──もっと大きな何かの反復なのか。


 盤面更新。千年周期。前回の更新の後、世界は「以前と同じに見えた」。人々は「何を忘れたのかも分からなかった」。


 もう一度。


 以前にも同じことがあった。何度も。


 凛の背筋を、これまでにない種類の寒気が駆け上った。


 残り153日。


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