三十六話:さざ波と傍観者
晴斗による「議会の見える化」作戦は着実に、しかし静かに葉山市の景色を変え始めていた。
今まで政治に全く興味のなかった層が晴斗のSNSをまるで連続ドラマを追うかのように毎日チェックするようになったのだ。
「今日の予算委員会、面白かったな」
「あのいつも居眠りしてる議員、また寝てたぞ」
居酒屋やカフェでそんな会話が交わされるようになった。それはほんの小さな変化だったが数年前の葉山では考えられないことだった。
だがその一方で議会内での晴斗の孤立はさらに深まっていた。
彼は徹底的な「無視」という最も陰湿な攻撃に晒され続けていた。
議員だけが参加できる重要な説明会の日程が彼にだけ知らされない。
彼が必要とする資料の請求が「担当者不在」を理由に後回しにされる。
エレベーターで乗り合わせても誰も彼とは目を合わせようとしない。
その夜、佐伯のバーで晴斗は疲れた顔でグラスを傾けていた。
「……まるで透明人間になったみたいですよ」
「だろうな」
佐伯はいつものように平然と答えた。
「村八分だ。日本の村社会が昔から異端者を排除するために使ってきた伝統的ないじめの手法だ」
「……どうすればいいんでしょう。このままじゃ本当に大事な情報が何も入ってこない」
「慌てるな」
佐伯はカウンターの上の水滴をゆっくりと拭き取った。
「お前が起こしたさざ波はなお前が思っている以上に遠くまで届いている。今はただ耐える時だ。そして観察しろ」
「観察……ですか?」
「そうだ。あの二十七人の議員どもを一人残らず観察するんだ」
佐伯はカウンターの下から一枚の大きな紙を取り出した。
そこには晴斗以外の全議員の顔写真と名前、所属会派、当選回数などが一覧になっていた。
「いいか坊主。この二十七人という小さな村はな決して一枚岩じゃない。市川というボス猿に従っているように見えてその実、腹の中ではそれぞれ違うことを考えている」
彼は数人の議員の顔写真を指でとんと叩いた。
「例えばこいつら。当選一回か二回の若手だ。親の地盤を継いだだけのお坊ちゃんもいる。だが彼らの中にも今の議会の古い体質に疑問を感じている奴がいないとは限らん。今はまだ長いものに巻かれているだけだ」
次に別のベテラン議員の写真を指さす。
「こいつは次の選挙で引退すると噂されている。もう市川に恩を売る必要も義理立てもない。だが事を荒立てる勇気もない。今はただの傍観者だ」
そして最後に女性議員の写真を指さした。
「こいつは小さな左派政党の所属だ。再開発には表向き反対の立場。だがお前のような得体の知れない無所属の若造と手を組む気はさらさらない。下手に組めば自分の支持層が離れると恐れているからだ」
佐伯の解説はまるでそこにいるかのように議員たちの腹の底を見透かしているようだった。
晴斗は今まで自分以外の議員たちを「市川派」かそうでないかという二元論でしか見ていなかったことに気づかされた。
だが違うのだ。
彼らはそれぞれ違う立場と思惑と、そして弱さを抱えた一人の人間に過ぎない。
「お前が今やっている『見える化』という名の情報発信。それはな市川たちへの攻撃であると同時にこいつら『傍観者』たちへのメッセージでもあるんだ」
「メッセージ……?」
「そうだ。『お前たちはこのままでいいのか?』という無言の問いかけだ。市民は見ているぞ、と。お前たちの日和見主義も長いものに巻かれるそのだらしない姿も全てガラス張りの向こうから見られているんだぞ、と」
佐伯は不敵に笑った。
「人間はな誰かに見られていると意識した時少しだけ善人になろうとするもんだ。今はまだ何も変わらんかもしれん。だがお前がこの戦いを一年二年と続ければ……。必ずこの傍観者たちの中から良心の呵責に耐えきれなくなる奴が一人また一人と現れる」
その時が仲間作りの始まりの時なのだと佐伯は言った。
焦るな。
今はただ自分の戦いを続けろ。
そして水面下で起きているかすかな心の揺れを見逃すな。
晴斗は佐伯が作った議員リストを食い入るように見つめた。
この二十七の顔。
その仮面の下に隠されたそれぞれの素顔。
これから始まる長い長い議会での日々。
その中で自分は彼らの心の扉をノックし続けるのだ。
いつかその扉が内側から開けられるその日を信じて。
晴斗は自分の新たな、そして気の遠くなるような戦いの始まりを予感していた。
それはただ敵を打ち負かすだけの戦いではない。
敵と傍観者の中から未来の仲間を見つけ出すための静かで孤独な戦いなのだ。




