三十四話:見えない傍聴席
初めての一般質問を終えた晴斗は物置同然の控室に戻りパイプ椅子に崩れるように座り込んだ。
全身から力が抜けていく。
あれだけ準備を重ねたのに。仲間たちの期待を一身に背負っていたのに。結果は惨敗。相手にかすり傷一つ負わせることすらできなかった。
(……無駄だったのか)
費やした時間も情熱も全てがあののらりくらりとした「鉄壁の答弁」の前に空しく霧散してしまった。
自分はこの先四年間。ずっとこの無力感と戦い続けなければならないのか。
心が折れかけていた。
その時だった。
ポケットに入れていたスマートフォンがブブッと短く震えた。
健太からのメッセージだった。
『晴斗さん、今時間ありますか? ネットを見てください。すぐに!』
その切迫したような文面に晴斗は訝しみながらもスマートフォンのブラウザを開いた。
そこに表示されていたのは地元の市民だけが利用するローカルな掲示板のスレッドだった。
そのスレッドのタイトルを見て晴斗は息を呑んだ。
【実況】葉山市議会 新人・木島議員、爆弾質問投下中
スレッドは数時間前からものすごい勢いで更新され続けていた。
書き込んでいるのは今日の議会を傍聴していた数人の市民らしかった。
『木島、いきなり再開発の核心に切り込んだぞ!』
『うわ、市川の顔すげえ引きつってるwww』
『都市計画部長の答弁ひでえな。用意した紙読んでるだけじゃん』
『「厳正なる審査」とか言ってるけど具体的には何も答えてねえ! これ絶対なんかあるだろ』
そこには議場では決して表に出ることのなかったもう一つの「議会」が存在していた。
彼らは晴斗が投げた「爆弾」を確かに受け止めていたのだ。
嘲笑と無関心に満ちたあの議場の空気とは全く違う熱気がそこにはあった。
スクロールしていくと晴斗の質問が進むにつれてスレッドの雰囲気も変わっていく。
『部長の答弁、壊れたテープレコーダーかよ。「前向きに検討」って何回言うんだ』
『街灯の質問、あれうちの近所の話だ。木島ちゃんと俺たちの声聞いてくれてるんだな』
『市長一度も答弁に立たないじゃん。全部部下に丸投げかよ。ふざけんな』
そして晴斗の質問が終わった直後の書き込み。
『時間切れか……。でもよくやったよ木島。俺は支持するぜ』
『今日の議会見てよかった。税金の無駄遣いしてるクソ議員ばっかりだと思ってたけど一人だけ本物がいたわ』
『悔しい。マジで悔しい。傍聴席から野次の一つでも飛ばしてやりたかった。「ちゃんと答えろ!」って』
晴斗は震える指で画面をなぞっていた。
涙が一筋頬を伝った。
自分は負けてなどいなかった。
議場という閉ざされた空間では自分は確かに無力だった。
だがその壁の向こうには見えない「傍聴席」が広がっていたのだ。
自分が投げた球は議場の壁をすり抜けてそこにいる市民たちの心にまっすぐに届いていた。
その時、控室の扉がコンコンとノックされた。
入ってきたのは佐伯だった。彼は晴斗のスマートフォンを一瞥するとにやりと笑った。
「……見たようだな坊主」
「佐伯さん……」
「言ったはずだ。お前の戦う場所はあの古狸どもが巣食う議場の中だけじゃない、と」
佐伯は一枚の紙を晴斗の机の上に置いた。
今日の議会のインターネット中継のアクセス数の推移グラフだった。
普段は二桁にも満たないそのアクセス数が晴斗の一般質問の時間だけ異常な急上昇を見せていた。
「健太たちがやったんだ」と佐伯は言った。
「お前が質問を始める直前からSNSで一斉に拡散した。『今から木島晴斗が再開発の闇に切り込みます』と。それを見て普段は議会中継なんて見向きもしない連中が何百人とアクセスしてきた。……お前はたった一人で演壇に立っていたんじゃない。その画面の向こうにいる何百人という『見えない傍聴席』を背負って戦っていたんだ」
そうだったのか。
だからあの時自分は孤独ではなかったのか。
「お前の今日の質問は百点満点中三十点だ」
佐伯の採点は辛辣だった。
「質問の仕方も甘い。相手の逃げ道も塞ぎきれていない。だがな……」
彼は初めて晴斗の目をまっすぐに見て言った。
「『誰のために戦っているのか』。その一点においては今日のあの議場にいたどのベテラン議員よりもお前が圧勝していた」
その言葉はどんな慰めよりも晴斗の心に深く沁みた。
負けていなかった。
いやむしろ勝ったのだ。
これから始まる長い戦いの最初の一歩。その本当の意味での勝利を。
「……反撃の狼煙は上がった」
佐伯は不敵に笑った。
「さあどうする坊主。この『祭り』をもっと面白くしてみるか?」
晴斗は顔を上げた。
その目からもう絶望の色は消えていた。
そこにあったのは傷つきそれでも再び立ち上がった戦士の不屈の光だった。
「……はい」
彼は力強く頷いた。
「やりましょう。俺たちのやり方で」
議会という閉ざされた「城」の分厚い壁。
それを内側からこじ開けることはできないかもしれない。
だが外側から市民という巨大な力を使ってその壁を揺さぶりそしていつか崩すことはできるかもしれない。
晴斗の孤独な戦いは今新たな仲間――「見えない傍聴席」という心強い味方を得て第二ラウンドのゴングを鳴らした。




