第93話「凍てつく村」
北の祠へ向かう道中、一行は小さな山村に立ち寄った。かつては山菜の採集と狩猟で賑わっていたというその村は、今は異様な静けさに包まれている。家々の煙突からは細く煙が上がっているが、広場には誰も出ていない。ただ、冷たい霧が足元を這い、肌に触れるたびに舌の奥が凍りつくような感覚があった。
「この霧——ただの冷気じゃない」
リリアが弓を握り直しながら言った。
「ああ。舌が痺れる。味を感じる前に、冷たさで何もかもが止まってしまう」
広場の片隅で、老婆が一人うずくまっていた。手には湯気の立つ鍋が握られているが、その湯気もすぐに凍りつき、白い結晶となって鍋の縁に張りついている。彼女は震える手で鍋をかき混ぜていたが、中身はすでに冷たく固まっていた。
「ばあさん、何があった」
「……味が、凍るんです。どんなに火をかけても、料理がすぐに冷め切ってしまう。冷めるだけじゃない——味そのものが凍りついて、何も感じられなくなる。村の者たちはみんな諦めて、家にこもっています」
「この霧はいつから」
「三日前です。北の祠のほうから、冷たい霧が流れてきて——それからずっとこれです」
「祠に何かあったか」
「わかりません。ただ、祠の精霊が悲鳴を上げたのを聞いた者がいます。『味が——動かない』と」
俺は立ち上がり、村の外れに目をやった。北のほうに、ひときわ濃い霧が立ち込めている。氷の祠はあの奥だ。
「原因は祠にある。行くぞ」
サジョウが一歩前に出た。
「カズマ殿——この霧、私の感じたことのある気配に似ています。“残香の権能”が持つ“味を留める”力が、極限まで強まるとこうなるのかもしれません」
「味を留める力が、凍りつかせているのか」
「はい。本来は味を保つための力ですが、それが過剰になれば——味は動きを止め、凍りつく。祠の精霊が何かに怯え、その力を暴走させているのだと思います」
「ならば——その力を解き放つ料理が必要だ。動かない味を、もう一度動かすための料理が」
サジョウがうなずき、自分も何か手伝えることはないかと考え込む。しかし彼女はまだ包丁に慣れたばかりで、一人で料理を作れる段階ではない。それでも——彼女は持っていた小さな包丁を取り出した。
「カズマ殿——私にも、何かできませんか。残香の力はもうありませんが——それでも、私が学んだことを活かしたい」
「いいだろう。お前はこの村の者たちに、温かい汁物を振る舞え。凍った舌をまず解かすんだ」
「はい!」
サジョウは緊張した面持ちで簡易竈に向かい、村の老婆から分けてもらった野菜を刻み始めた。まだ包丁の手つきは覚束ないが、その目は真剣だった。
俺は祠へ向かう前に、村の広場に竈を据え、まず村人たちの舌を解かす料理を作ることにした。持参した将軍の粥の素、東方のアオサ、それから無味砂漠の岩塩——そして何より、山の祠で学んだ山菜の苦味と、甘味の祠で学んだ蜂蜜の一滴を加える。
「“解氷の粥”だ。凍りついた味を、温かさと苦味と甘味で呼び覚ます。まずは食え」
老婆がおずおずと一口すする。次の瞬間——その目が大きく見開かれた。
「……味が、する。苦くて、甘くて、しょっぱくて——温かい」
「まだだ。もっと食え。凍りついた舌が解けるまで、ゆっくり味わえ」
村人たちが次々に粥を受け取り、一口食べるたびに歓声を上げる。サジョウも自分の作った汁物を振る舞い始め——塩加減はまだ不安定だが、その湯気に村人たちは涙を流した。
「ありがとう。誰かのために作られた料理を食べるのは——初めてだ」
老婆がサジョウの手を握りしめる。サジョウは答えられず、ただ深く頭を下げた。
「カズマ殿——私、これからも料理を作り続けたい」
「ああ。お前はもう料理人だ」
「……はい!」
エルムが杖で北の空を示す。
「祠まではあと半日。霧はさらに濃くなるだろう。しかし——粥で舌が解けた今なら、進める」
「ああ。行くぞ」
「了解」「はい!」
一行は村人たちに見送られながら、氷の祠へと向かう。凍てつく霧の奥で、何が精霊を怯えさせているのか——それを突き止めなければ、味は再び凍りつくだろう。
(第93話 終)
▼ 次回予告(第94話用の引き)
氷の祠の最奥で、精霊が震えていた。その原因は——祠の地下深くに封じられた“氷の権能”そのものだった。
「味が——動かない。ずっと、ずっと、同じ場所に留まっている」
凍りついた味を解き放つため、カズマは最後の調理台に立つ。
(次話:「氷の祠」)




