第81話「日常の先に」
飴の王が調和を受け入れ、世界の味が完全に戻ってから数週間が過ぎた。王都の東市場にある屋台は、相変わらずの賑わいを見せている。しかし——その賑わいの中に、少しずつ新しい風が吹き始めていた。
「師匠、今日のまかないは俺に任せてください」
シノが包丁を握りしめて言った。その手つきはもう、弟子入りした当初の震えとは無縁だ。
「いいだろう。何を作る」
「東方風の卵かけご飯です。リクに教わったアオサの粉末を混ぜ込んだご飯に、卵黄をのせて——」
「面白いな。やってみろ」
アリシアは解毒スープの改良に余念がない。最近は解毒だけでなく、日常の健康を支える「養生スープ」としての展開を考えているらしい。彼女のスープを目当てに通う常連客も増えていた。
「アリシアさん、昨日の養生スープ、すごく体が温まりました」
「ありがとうございます。今日は柑橘を少し多めにしてみました」
「楽しみだ!」
リクは井戸端で鍋を磨きながら、村に送る手紙をしたためていた。海の祠が癒えてから、故郷の漁村にも味が戻りつつあるという。彼は自分の学んだことを村に伝え、いつか村にも小さな屋台を開きたいと夢を語るようになっていた。
「リク、手紙か」
「はい。村長さんに、カズマさんの教えをまとめて送ろうと思って」
「いいことだ。教えは広めるためにある」
「はい!」
三人の弟子たちがそれぞれの道を見つけ始めている。それを見守るのが、俺の新しい役割になりつつあった。
昼下がり、リリアがいつもの席で茶をすすりながら言った。
「最近、あんたより弟子たちが作る料理のほうが多くなったな」
「それでいい。屋台は俺だけの場所じゃない」
「……そうだな」
彼女は少しだけ遠くを見つめた。弓は相変わらずカウンターの隅に立てかけてある。しかし最近、その弓の弦が少し緩んでいることに、俺は気づいていた。
「リリア、弓の弦が緩んでるぞ」
「ああ——張り替えようと思ってた」
「嘘だな」
「……嘘じゃない」
「何か考えてるのか」
彼女はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「最近、戦いが減った。神も獣も祠も、全部片付いて——私の役目が、少しわからなくなってた」
「役目は弓を引くことだけか」
「違う。ここにいることだ。でも——それだけでいいのかと思って」
「それでいい。ここにいるだけで、お前は誰かを守っている」
「……誰を」
「俺を。弟子たちを。この屋台を」
リリアは答えず、茶を一口すすった。しかしその口元が、かすかに緩んだのを俺は見逃さなかった。
夕方、アリシアが改まった様子で俺の前に立った。
「師匠。お話があります」
「なんだ」
「王宮から——正式に、王位継承の打診がありました。顔の爛れが癒え、公務に復帰してから、ずっと待ってほしいと言われていたのですが——」
「王女としての責務だな」
「はい。でも——私は、ここで料理を作り続けたい。王女としてではなく、一人の料理人として」
「なら、断ればいい」
「しかし、そうすると王位は遠い血族に渡り、王国の未来が——」
「アリシア」
俺は静かに言った。
「お前が王女として国を治めるのも、料理人として誰かの腹を満たすのも、どちらも“誰かのために生きる”ことだ。どちらを選んでも、間違いじゃない」
「師匠は——どちらがいいと思いますか」
「俺は、お前の料理を食い続けたい。それだけだ」
アリシアは少しだけ目を潤ませ、深くうなずいた。
その夜、屋台を閉めた後、トシが姿を現した。いつもの着物姿、いつもの扇子——しかし今日は、少しだけ神妙な顔だった。
「なあ、カズマ。ちょっと話がある」
「なんだ」
「俺、しばらく旅に出ようと思う」
「旅」
「ああ。世界中の祠が癒えて、味が戻った。でも——まだまだ味を知らない者たちが、遠い地にたくさんいる。兄貴も一緒に行く。食神としての本来の仕事を、もう一度やり直したいんだ」
「グーラも」
「ああ」
グーラが静かに姿を現した。
「我はかつて、味を歪めた。その罪を償うために、今度は味を広げたい。弟と共に——世界中を巡り、料理の喜びを伝える旅に出る」
「そうか」
「お前には——本当に世話になった。礼の言葉もない」
「礼はいらない。お前たちは、俺の客だからな。客が旅立つのは当たり前だ」
「カズマ——」
「いつでも帰って来い。ここには、いつでも焼きおにぎりがある」
トシは扇子を閉じ、少しだけ笑った。その目は、初めて出会った時よりずっと優しかった。
「じゃあ、行ってくるよ。また会おう」
「ああ。元気でな」
二人の食神が去り、市場の夜は静かだった。
数日後、屋台には一枚の地図が貼られることになった。弟子たちが広げたそれは、大陸全土を描いた古い羊皮紙で、各地の祠や村の名が細かく記されている。
「何をしてるんだ」
「次の旅の計画です」
シノが顔を上げた。
「トシさんたちが世界中を巡るなら、俺たちも負けてられない。屋台の味を広げたいんです。王都だけじゃなくて、もっと遠くの村や町にも」
リクが続ける。
「俺の故郷にも、小さな屋台を作りたい。母さんの味を、村の人たちにも」
アリシアが微笑んだ。
「私は王宮と市場をつなぐ料理を作り続けます。王女として、料理人として——両方できることを」
「面白いな。好きにしろ。俺はここで、いつも通り屋台を開ける」
リリアが地図を覗き込みながら言った。
「私も、たまには旅に出ようかな。エルフの里にも顔を出したい」
「戻ってくるのか」
「当たり前だ。ここは——私の居場所だからな」
その言葉に、アリシアが顔を上げ、リリアと目を合わせた。一瞬の沈黙。それから二人は、かすかに微笑み合う。言葉はなかった。しかし——確かに、何かが通じ合った瞬間だった。
「よし、明日からまた忙しくなるぞ。今日は早く休め」
「はい、師匠!」
三人の弟子たちがそれぞれの持ち場に戻り、リリアが弓の弦を張り替え始める。ゴルドアとマクシミリアンは市場の見回りに出かけ、将軍は明日の粥の仕込みを始めていた。
グレゴールとエレナは新しいメニューの相談を続けている。ヴァルケンと戦士たちは、屋台の看板を新しく塗り直していた。シロガネとクロ、ガルムと喪犬は市場の片隅で静かに昼寝を決め込んでいる。
カウンターの隅には、トシとグーラが残していった小さな扇子が一つ。その絵は——屋台と、そこに集うすべての者たちの姿だった。
もうすぐ新しい季節が来る。屋台の物語は、まだ続いていく。
(第81話 終)
▼ 次回予告(第82話用の引き)
弟子たちがそれぞれの夢を語り始めた矢先、屋台に珍しい客が訪れる。
「カズマ殿——西方諸国連合の調理院より、正式な依頼です。大陸統一料理大会の審査員を、お願いできないでしょうか」
(次話:「大陸料理大会の知らせ」)




