第79話「氷原の彷徨者たち」
北の果てを目指す一行は、ついに氷原の入口に立っていた。
見渡す限りの白い大地が広がり、凍てつく風が耳鳴りのように吹き荒んでいる。雪は深く、一歩踏みしめるごとに膝まで埋まった。空は灰色に曇り、太陽の位置さえ定かではない。しかし何より異様なのは——風に乗って漂ってくる、甘ったるい匂いだった。
「この甘い匂い——甘味の祠の時と同じだ」
リリアが口元を押さえながら言った。
「でも、ずっと強い。それに——」
「何かいる」
ゴルドアが前方を指す。
氷原の白い霧の中を、数人の人影がふらふらと彷徨っていた。みな痩せ細り、唇は荒れ、目は虚ろに開かれている。手には雪が握られていた——それを無理やり口に詰め込み、甘さを求めて噛みしめている。雪に味などないのに。
「甘い……もっと甘いものを……甘さだけが、世界の味……」
一人の男が虚ろな声で呟きながら、雪をかじり続けている。
「氷原の彷徨者たちだ」
エルムが杖を握りしめて言った。
「飴の王の甘い霧に取り憑かれ、正気を失った者たち。味覚が甘味一色に支配され、他の味をまったく感じられなくなっている。このままだと——雪を食べ続けて、凍死するしかない」
「助ける方法は」
「甘味だけではない、すべての味を思い出させることだ。それができるのは——」
「料理だけだな」
俺は背負った包みを解き、簡易竈を雪の上に据えた。
「ここで料理を作る。氷原の彷徨者たちに、甘味以外の味を思い出させる」
リリアが弓を構え、ゴルドアとマクシミリアンが左右に展開する。彷徨者たちは敵意を持っていないが、何かに取り憑かれたように雪をかじり続けている。ギリアムが彼らを一度に集めようと声をかけたが、誰も反応しない。甘さ以外の何も感じられなくなっているのだ。
俺は竈に火を起こし、鍋に雪を溶かして湯を沸かし始めた。この氷原では食材がほとんど手に入らない。しかし——旅の仲間たちがそれぞれ持ってきた味がある。
「将軍の粥の素はあるか」
「ああ。出発前に将軍から預かった」
ゴルドアが包みを差し出す。乾燥させた粟粥の素だ。
「それを使う。アリシア、解毒スープの柑橘の残りは」
「まだ少しだけ」
「リク、東方のアオサと干し魚は」
「あります!」
「シノ、卵黄の最後の一つを使え」
「はい!」
俺は粟粥の素を湯で戻し、そこに干し魚をほぐして加えた。アオサの粉末で潮の香りをつけ、柑橘の皮をすりおろして爽やかさを足す。卵黄を最後に落とし、とろりとした濃厚さを加えて——岩塩をほんのひとつまみ。
鍋から立ち上る湯気に、潮の香りと粟の甘み、柑橘の爽やかさが混ざり合い、甘ったるい霧を押しのけていく。
「“氷原の目覚め粥”だ。甘味だけじゃない。塩味、酸味、うま味、苦味——すべての味がここにある」
器を彷徨者たちの前に差し出すと、最初の一人が虚ろな目でそれを見つめた。それから一口、粥をすする——次の瞬間、男の目が大きく見開かれた。
「……しょっぱい。すっぱい。甘くない——でも、うまい」
「思い出したか。甘さだけが味じゃない。他の味があるから、甘さも生きる」
「……ああ。俺は——何をしていたんだ」
男は涙をこぼし、粥をかきこみ始めた。他の彷徨者たちも次々に粥を受け取り、一口食べるたびに正気を取り戻していく。甘い霧に支配されていた者たちが、次第に自分を取り戻し、空腹を満たし、寒さに震え始める。
「あんたたち、どこから来た」
「……南の村です。甘い霧に誘われて、気がついたらここに」
「もう大丈夫だ。南へ戻れ。途中に王都がある。そこには屋台があって、温かい飯がいつでも食える」
「……ありがとうございます」
彷徨者たちは深く頭を下げ、南へと歩き始めた。一人、また一人と去っていく中で、最後に残った老人が振り返って言った。
「旅の方——気をつけて。この先に、“甘い宮殿”がある。そこには——“飴の王”がいる。わしらは宮殿に近づきすぎて、甘さに取り憑かれた」
「飴の王はどこに」
「氷原の中心——大きな氷の裂け目の下に、宮殿の入口がある。でも、近づくだけで舌が甘さに痺れる。どうか——」
「教えてくれてありがとう。あなたも南へ。温かい飯が待っている」
老人は深く一礼し、南への道を歩き始めた。
「飴の宮殿の入口が見つかったな」
リリアが弓を下ろして言った。
「ああ。氷の裂け目の下——おそらく氷河の洞窟の奥深くにある」
「このまま進むか」
「いや——今日はここで野営を張る。明日、裂け目に到着する。それまでに全員、万全の状態に整えるぞ」
「了解」「はい!」
一行は氷原の風を避けられる岩陰に野営の準備を始めた。リクとシノが粥の残りを温め直し、アリシアが薬草茶を淹れる。ゴルドアとマクシミリアンは氷の裂け目へ続く安全な道を偵察に出た。エルムは地図を広げ、飴の宮殿への最後の行程を確認している。
「なあ、カズマ」
トシが姿を現し、扇子を広げて隣に座った。扇子の絵は氷原と、その先にぼんやりと浮かぶ宮殿の影に変わっている。
「飴の王は——俺たち食神が扱ってきた味の権能の一つだ。それが意思を持って暴走した。ある意味、俺たちの責任でもある」
「そうか」
「だから——お前だけに任せられない。明日、俺も兄貴も全力を出す。神として、できる限りのことをする」
「ああ。頼りにしてる」
グーラが静かにうなずいた。
「飴の王は甘味の権能そのもの。しかし——カズマの料理には、甘味だけではないすべての味がある。それがあれば、必ず届く」
「届かせる。みんなの味を、一つの皿に込める」
夜が更けて、氷原の空にオーロラが揺らめき始めた。甘い霧が晴れたことで、本来の北の空が姿を現したのだろう。明日はいよいよ飴の宮殿へ。最後の戦いが待っている。
(第79話 終)
▼ 次回予告(第80話用の引き)
氷の裂け目の底、地下深くに眠る「飴の宮殿」。その最奥で待つ飴の王は、美しくも恐ろしい女の姿をしていた。彼女が求めるのは、世界中の味を甘さで覆い尽くすこと。カズマは最後の調理台に立ち、すべての基本の味を調和させた「最後の一匙」を捧げる。
(次話:「飴の宮殿」)




