第76話「酸味の祠」
酸味の祠を目指す一行は、かつて果樹園と酢蔵が立ち並んでいたという丘陵地帯を歩いていた。しかし道中、空気は異常なほど酸っぱく、肌がぴりぴりと刺されるようだった。木々の葉は黄色く変色して縮れ、地面に落ちた果実はすべて腐敗し、異様な酸臭を放っている。
「この空気、吸うだけで喉が焼ける」
リリアが口元を押さえながら言った。
「酸味の精霊が暴走している証拠だ」
エルムが杖をつきながら答える。
「酸味は保存と浄化の力を持つが、度を越せば腐食そのものになる。祠の精霊は今、酸味を抑えきれずにいるのだろう」
リクが背負った甕を抱え直しながら言った。
「カズマさん、この東方の米酢——精霊に使えますか」
「ああ。ただし、酸味だけではだめだ。甘味の祠で学んだように、酸味もまた他の味と調和しなければならない」
「他の味——甘味、ですか」
「そうだ。甘酢のバランスが鍵になる」
やがて、丘の上に祠が見えてきた。壁は酸に溶けて崩れ落ちかけ、周囲の地面は黒ずんでひび割れている。祠の奥で——精霊が苦しんでいた。痩せ細った男の姿をした精霊が、両手で喉を押さえ、酸に灼かれるように喘いでいる。その吐く息はすっぱく、祠の壁をさらに溶かしていた。
「酸味の精霊——」
「ああ。このままでは祠ごと溶け崩れてしまう」
「待ってろ。今、料理を作る」
俺は祠の前に簡易竈を据え、持参した食材を並べた。リクの東方の米酢、アリシアの柑橘、それから甘味の祠で使った蜂蜜の残り。無味砂漠の岩塩もまだ少しある。
米酢を弱火で温め、蜂蜜をほんの少しずつ溶かし入れる。酸味と甘味が混ざり合い、甘ったるくも酸っぱすぎもない、絶妙な甘酢の香りが立ち上った。そこに刻んだ柑橘の皮を加え、爽やかな香りを重ねる。岩塩をほんのひとつまみ。できあがったのは黄金色に輝くとろりとした甘酢ソースだった。具はない。味の調和そのものを捧げるための一皿だ。
「“調和の甘酢”だ。酸味だけでは苦しいだけだ。甘味と共にあることで、酸味は力を取り戻す」
器を精霊の前に差し出すと、精霊は震える手で一口すする。その瞬間——喉の灼熱が和らいだのか、深く息を吐き、もう一口、もう一口と無心にすすり続ける。
「……すっぱい。でも——甘い。すっぱさが、嫌なものじゃない。甘さがすっぱさを包んでくれる」
「酸味は腐食のためじゃない。保存し、浄化し、料理を引き立てるための味だ。そのことを思い出せ」
精霊の目から涙がこぼれ、その涙がこぼれるたびに祠の壁のひび割れが塞がっていく。腐敗臭が消え、周囲の果樹に新しい葉が芽吹き始めた。黒ずんでいた地面が本来の土の色を取り戻し、風が爽やかな柑橘の香りを運ぶ。
「——祠が、癒えた」
エルムが杖で祠の壁に触れ、深く息を吐く。
「これで酸味も正気に戻った。残るは苦味の祠。基本の味の最後だ」
「ああ。ここまでくれば、甘い霧の正体にも近づけるかもしれない」
リクが東方の米酢の甕を祠に供えた。
「これ、俺の村の酢です。よかったら」
精霊は甕を受け取り、微笑んだ。
「東方の、潮の香りがする酢だな。ありがたく使わせてもらう」
「はい!」
リリアが焼きおにぎりをかじりながら言った。
「甘味、酸味——この二つが戻った。残るは苦味だな」
「ああ。苦味の祠は——おそらく、これまでで最も難しい。苦味は嫌われる味だからな」
「でも、あんたならなんとかするだろ」
「なぜそう言い切る」
「今まで、できなかったことがないからだ」
トシが扇子を広げて言った。
「苦味か。兄貴、俺たちも苦味の祠は手強い相手だったな」
「ああ。苦味は料理の中で最も扱いが難しい。だが——カズマには、苦味を旨味に変える力がある」
「お前たちも手伝えよ」
「もちろんだ」
一行は酸味の祠を後にし、最後の基本の味——苦味の祠へ向けて出発する。甘い霧が世界の味を狂わせた真の理由はまだわからない。しかし、すべての基本の味を癒し終えた時、何かが見えてくるはずだ。
(第76話 終)
▼ 次回予告(第77話用の引き)
最後の基本の味「苦味の祠」を目指す一行は、荒れ果てた薬草園の跡地に到着する。そこでは苦味の精霊が、自らの苦しみを周囲に撒き散らし、すべてを苦く変えていた。カズマは苦味を包み込む「蜂蜜漬けの苦草」を作り、精霊に捧げる。
(次話:「苦味の祠」)




