第62話「茸の祠」
味喰いの男——名をゲルドという——の案内で、一行は枯れ果てた森の奥深くへと分け入っていった。かつては緑豊かだったであろう森は、今は無残な姿を晒している。木々の幹は黒ずんでひび割れ、枝には一枚の葉もない。地面には枯れ葉すらなく、乾いた土がむき出しになっていた。
「この森で、俺は三年前に迷った」
ゲルドがぽつりと語る。
「狩りの途中で霧に巻かれてな。食料も尽き、飢え死にしかけた時——祠から声が聞こえた。『味を捧げよ。さらばお前を救う』と。俺はその声に従って、通りかかる者を襲い、味を奪っては祠に運んだ。味を奪われた者たちは、みな抜け殻のようになって——死んだ者もいる」
「お前はそれで、生き延びたのか」
「ああ。精霊が俺に力を与えていた。味を集めるための、あの影の力を。だが——もう限界だ。精霊も、俺も」
ゲルドの指さす先に、祠が見えてきた。木々が途切れた空地の中央に、苔むした石造りの祠がひっそりと佇んでいる。壁には無数の茸が刻まれていたが、その浮き彫りは崩れ落ちかけ、祠全体が今にも倒れそうに傾いでいた。
祠の奥では——精霊が喘いでいた。
それは小さな老人の姿をしていた。痩せ細り、肌は木の皮のようにひび割れ、呼吸のたびにかすかな光が漏れている。かつては森の恵みを司っていたであろうその精霊は、今はほとんど力を使い果たし、消え入る寸前だった。
「茸の精霊——」
エルムが杖を握りしめ、声を潜める。
「これほど衰弱しているとは。西方の精霊たちよりさらにひどい」
「まだ息はある。間に合う」
俺は祠の前に簡易竈を据え、持参した山菜と香辛料を並べた。しかし——茸がない。この枯れた森では、茸などどこにも生えていない。
「シノ、アリシア。この周辺で、どんな小さなものでいい。生きている茸を探せ」
「はい!」
「ゲルド、お前は森のことを知っているはずだ。どこかにまだ茸が残っていないか」
「……一つだけ、ある。祠の裏に、小さな洞窟がある。そこに——最後の茸が生えている。だが、それを取ればもう——」
「いい。案内しろ」
ゲルドに導かれ、祠の裏手にある小さな洞窟に入る。中はかすかに湿り、岩の割れ目に——たった一つだけ、小さな茶色い茸が生えていた。傘も開ききらず、今にも枯れ落ちそうな、か弱い茸だった。
「これが——この森の最後の茸だ」
「十分だ」
俺はその茸をそっと摘み取り、祠の前に戻った。シノとアリシアも、枯れ葉の下から見つけた小さな芽のようなものを集めてくる。それが茸になるのかどうかもわからなかったが——生命の気配は確かにあった。
「限られた材料だが——これで作る」
俺はまず、その最後の茸を薄く切り、岩塩と共にすり鉢で丁寧にすり潰した。かすかに立ち上る、土と森の匂い。それから、山菜を刻んで鍋に入れ、少量の水でじっくりと煮る。香辛料は使わない。茸そのものの香りを最大限に引き出すために、火加減は弱火で、時間をかける。
煮立つ鍋に、すり潰した茸のペーストを溶かし入れ、最後に無味砂漠の岩塩をほんのひとつまみ。できあがったのは——茶色く濁った、素朴なスープだった。
「“最後の茸のスープ”だ。この森に残った最後の命を、一椀のスープに閉じ込めた。これを捧げる」
祠の祭壇にスープを供え、精霊の前に差し出す。湯気と共に立ち上る、かすかな茸の香りが、精霊のひび割れた肌を包み込んだ。
——次の瞬間、精霊の目が、ゆっくりと開かれた。
「……茸の、香り」
声はかすれ、風に消え入りそうだったが、確かに響いた。
「久しぶりだ。茸の香り。私が守っていた、森の恵みの香り——」
「この森には、まだ命がある。最後の一株が、このスープになった」
「最後の——」
「ああ。でも、終わりじゃない。お前がもう一度、森を守れば、茸はまた生えてくる。これが、その始まりだ」
「……もう一度、私に守れるだろうか」
「守れる。お前だけじゃない。ここに集まった全員が、森の味を大切に想っている」
精霊はスープを一口すする。次の瞬間——そのひび割れた肌が、かすかに潤いを取り戻し始めた。枯れ木のようだった手が少しだけふっくらとし、呼吸も少しだけ深くなる。
「——ありがとう。もう少しだけ、頑張れそうだ」
「無理はしなくていい。ゆっくりでいい。時間をかけて、森を取り戻せ」
精霊は深くうなずき、祠の壁に手を触れた。壁のひび割れが少しずつ塞がり、崩れかけていた浮き彫りが元の形を取り戻し始める。そして——祠の周りの土から、小さな小さな、白い芽が一つ、顔を出した。それは茸の赤ちゃんだった。
「新しい命が——」
アリシアが涙を浮かべて呟く。
「ああ。森は、ゆっくりとだが蘇る」
「これで北方の一つ目が癒えた」
ゲルドが祠の前に跪き、涙をこぼしていた。
「……俺は、許されるのだろうか」
「お前は味を奪った。しかし——これからは、味を守る側に回れ」
「味を守る」
「ああ。この祠の番人として、森の再生を見守れ。精霊を助け、これ以上、味喰いを生み出すな」
「……わかった。必ず」
精霊がかすかに微笑み、ゲルドの肩にそっと手を置いた。ゲルドの体から、黒い影の力が消えていく。代わりに、彼の手には小さな茸の芽が一つ、握られていた。
祠の傍らで野営の準備をしながら、トシが扇子を広げて言った。
「北方の茸の祠、これで癒えた。しかし——精霊はまだかなり弱い。他の祠も同じような状態だろうな」
「ああ。でも、精霊たちが目覚めれば、あとは時間が解決する」
「だな。で、次は——乳の祠か」
「乳の祠。乳製品の味を守る祠だ。どんな精霊がいるかはわからんが——牛か羊か、あるいは山羊か」
「俺たちが行けばわかるさ」
リリアが焼きおにぎりをかじりながら言った。
「乳の祠なら、チーズか何か作るのか」
「かもな。でも——材料がなければ、想いで作るだけだ」
「それで今までやってきたもんな」
グーラが静かに焚き火を見つめながら言った。
「乳の祠は——かつて我が美食教団を率いて訪れた祠の一つだ。その時は、チーズの味を歪め、精霊を苦しめた。今度は——味を戻す」
「兄貴、俺も手伝うよ」
「ああ」
エルムが地図を広げ、次の目的地を示す。
「乳の祠はここから北東に四日。かつては酪農が盛んな高原だったと聞く。今はどうなっているか——」
「行ってみなければわからない。明日も早い。今日は休め」
「了解」「はい!」
一行は、新しい芽が顔を出した茸の祠の傍らで、明日への備えを始めた。森の再生は始まったばかり。旅はまだ続く。北方の残り二つの祠へ——大地の味を取り戻すために。
(第62話 終)
▼ 次回予告(第63話用の引き)
北方二つ目の祠「乳の祠」を目指す一行は、かつて酪農が盛んだった高原に到着する。しかし、そこにいたのは痩せ細った山羊が一匹と、今にも消え入りそうな子供の精霊だけだった。
「乳の味を——もう一度、私に」
カズマはその山羊の乳と、持参したわずかな材料で、乳の精霊を目覚めさせる一皿を作り始める。
(次話:「乳の祠」)




