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(完了) 元マフィア、異世界で屋台を始める   作者: 星海凡夫


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第61話「北方への旅立ち」


香草の祠を発ってから、一行は北へと向かっていた。西方の三つの祠を癒した達成感と共に、しかし旅はまだ長いという緊張感が一行の歩みを引き締めている。街道は次第に緑を減らし、岩がちな荒地へと変わっていく。空気は冷たく乾き、北風が時折、耳鳴りのような音を立てて吹き抜けた。


「北方の祠は、西方よりずっと古い」

エルムが地図を広げながら言った。

「茸の祠、乳の祠、蜜の祠。いずれも、人間がまだ火を使いこなす前に建てられたと伝えられている」

「そんな古い祠が、まだ残ってるのか」

「ああ。しかし——それだけに、精霊たちの衰弱も激しいだろう。西方の祠ですら危うかった。北方はもっと深刻かもしれん」


アリシアが少し考え込んでから言った。

「茸の祠は、森の恵みを守る祠ですね。森の精霊が弱れば、茸だけでなく、山菜や木の実も育たなくなる」

「そうだ。大地の味の根本には、森の恵みがある。それを取り戻さなければ、他の味もいずれ枯れる」


ゴルドアが無言で前方を見据えたまま言った。

「北方の山道は、かつて帝国の斥候として通ったことがある。盗賊や野獣も多い。警戒は怠れん」

「ああ。頼む」


マクシミリアンも静かにうなずく。

「私は北方の生まれではないが、戦場としてこの地を知っている。山を越えれば、古い森があるはずだ」

「その森に、茸の祠があるんだな」

「おそらく」


シノがふと空を見上げた。

「北の空って、なんだか色が違う気がする。灰色っていうか——味がしない感じ」

「味がしない空、か」

「はい。香草の祠を出てから、だんだん空気の匂いが薄くなってる気がします」

俺は自分の鼻で確かめる。確かに、空気に匂いが少ない。森の香りも、土の匂いも、遠くの花の香りも——何もかもが希薄だった。

「精霊たちが弱っている証拠だ。早く祠を癒さなければ」


山中に入る手前で、小さな山村に立ち寄った。石造りの素朴な家が数軒、山の斜面にへばりつくように建っている。煙は上がっているが、数は少ない。村人はみな痩せ細り、畑の作物も元気がなかった。


「旅の方か。この先の山道は、今は行かないほうがいい」

村の古老が杖をつきながら言った。

「なぜ」

「“味喰い”が出る。ここ数ヶ月、山に入った者はみな、味覚を失って戻ってくる。何を食っても砂の味——そう言って、食事をしなくなり、やがて衰弱して死ぬ」

「味喰い」

「ああ。かつては現れなかった。だが——最近、急に」


エルムが古老に尋ねる。

「その味喰いとやらは、どんな姿をしている」

「わからん。霧のようなものだと言う者もいれば、獣の影を見たと言う者もいる。だが——確かなのは、出会ったら最後、味を奪われるということだ」


リリアが弓を握り直す。

「それって、前に会った“味を食う霧”と同じじゃないか」

「似ているが——霧は自然現象だった。しかし今度のは、もっと能動的だ。霧が味を食っていたのではなく、霧に乗って“何か”が味を奪っているのかもしれない」

「なら、退治する必要があるな」

「ああ」


俺は背負った包みを確かめる。材料は少ないが、北方の祠へ向かうにはここを越えなければならない。

「じいさん、この村で採れる食材を少し分けてくれないか。料理を作る。味喰いに対抗する料理を」

「料理で対抗?無理だ、相手は霧の化け物だぞ」

「霧にも、味はある。味があれば——料理の力が届く」


古老は半信半疑ながら、村の野菜と山菜を少しだけ分けてくれた。どれも見た目は悪くないが、やはり味は薄い。


俺はそれらを刻み、簡易竈で火を起こす。作るのは——「霧払いの麻辣スープ」の改良版だ。西方の山道で使ったあのレシピに、今回は山菜の苦味と香りを加える。香草の祠から少しだけ分けてもらった柚子の皮も、最後の一片をすりおろして入れた。


「“山菜の麻辣スープ”だ。辛さと痺れで舌を覚醒させ、山菜の苦味が味覚を呼び戻す。これを持って山に入れば、霧に味を奪われても、しばらくは持ちこたえられる」

「……そんなに辛いのか」

「辛い。でも、それだけ味が濃いということだ」


古老はおずおずとスープを一口すする。途端に咳き込んだが、目は大きく見開かれた。

「確かに——味がする!久しぶりに、ちゃんとした味が!」

「山を越える間、これを飲み続ければ味覚は守れる。村の人たちにも分けてやってくれ」

「ありがたい——何とお礼を言えば」


山村で一泊した翌朝、一行は麻辣スープを手に山道へと踏み込んだ。


山道は予想通り、冷たい霧に包まれていた。霧は粘つくように肌に絡み、舌の上で甘く腐ったような不快な味がする。しかし、麻辣スープを一口含むたびに、舌がビリビリと痺れて霧の味を打ち消していく。


「この霧——やっぱり、普通じゃない」

リリアが矢で前方を示す。

「何かいる」

「ああ」


霧の奥に、黒い影が揺らめいていた。人の形をしているが、輪郭はぼやけ、まるで煙でできているようだった。目だけが黄色く光り、それがじっとこちらを見つめている。


「味喰い——」

「来るぞ!」


影が一瞬で距離を詰め、リリアの矢がそれを貫く——が、矢は影をすり抜けて後ろの木に刺さった。

「効かない!」

「実体がないのか」

ゴルドアが盾を構え、マクシミリアンが大剣を振るう。しかしどちらも影を払うことはできず、影は笑うように口を開けた。


「——味を、寄越せ」


声が、直接頭の中に響く。


俺は一歩前に出た。

「味が欲しいのか」

「——ああ。飢えている。味が欲しい。お前の味を、寄越せ」

「なら、食え」


俺は麻辣スープの入った水筒を、影に向かって差し出した。影は一瞬ためらい、スープの香りに引き寄せられるように近づく。そして——水筒に口をつけ、一口すする。


次の瞬間、影が激しく震えた。


「——辛い!しかし——これは、味だ!本物の味だ!もっと——もっと寄越せ!」

「いいぞ。ただし——その代わりに、お前が奪った味を返せ」

「——味を、返す」

「ああ。お前は飢えていただけだ。味を知らなかっただけだ。だから——もう味を奪わなくてもいい。これからは、これで空腹を満たせ」


影はしばらく震えていたが、やがて——ゆっくりと、その輪郭が変わっていった。黒い煙が晴れ、中から現れたのは、痩せ細った一人の男だった。年の頃は四十代。狩人のような装束を着ているが、今はボロボロだ。


「……俺は、味を奪っていたのか」

「ああ。お前は味に飢えていたんだろう」

「……そうだ。俺は森で迷い、飢え死にしかけた。その時、祠から声が聞こえた。『味を集めよ。さればお前も救われる』と。俺は——必死だった」

「祠から声」

「ああ。森の奥に、古い祠がある。茸の祠——そこで、俺は精霊に呼ばれた。精霊が味を求めていた。だから俺は——通りかかる者から味を奪って、捧げていた」


エルムが静かに言った。

「精霊が、味を求めて人間を使っていたのか。これほど衰弱しているとは」

「ああ。もう時間がないんだ。精霊も、俺も——」


俺は男に麻辣スープの残りを手渡した。

「案内しろ。その祠へ。俺は料理人だ。精霊に、本当の味を捧げる」


男は涙を流しながらうなずき、一行を森の奥へと導き始めた。


(第61話 終)


▼ 次回予告(第62話用の引き)


味喰いの男の案内で、一行はついに「茸の祠」へと到着する。そこはかつて豊かな森だった場所だが、今は枯れ木が立ち並び、祠の精霊は今にも消え入りそうに喘いでいる。

「茸の味を——もう一度、私に」

カズマは持参した山菜と香辛料を活かし、森の恵みを凝縮した一皿を作り始める。

(次話:「茸の祠」)

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