表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
105/105

最終章 “So Into You”〔完〕



「私……大人になりたかったんです。好きな人を守れるように」


 黙って耳を傾けてくれる先生の前で、私はいつしか懸命になっていた。


「でも大人になったつもりで、私は何も見えていなかった。もう一度やり直したいんです。どうすればいいですか? 教えてください、先生……」


 伝えたい言葉がある。何度も伝えたその言葉を、以前よりももっと深い気持ちで。

 遠回りしたけれど、伝えることを許してほしい。

 彼の出す答えを待ちながら胸を騒がせていると、ややあって、優しい声が降ってきた。


「難易度は高くないよ。でもとても難しい。できる?」


 黙って頷き、私は先生を見上げる。


「気持ちを正直に言ってみればいい。上手く言えたら、合格だ」


 こうして視線を交わすたび増してきた愛おしさが、今、胸を埋め尽くした。

 この気持ちを表現する、たった一つの言葉。彼は伝えてくれたから。私ももう一度、伝えたいから。それを許してくれたから。


 息を吸う。そして慎重に、言葉を紡いだ。


「月原先生が好きです。私を恋人にしてくれませんか?」


 言い切ると同時に高まった強い緊張で、思わず顔を伏せる。

 きつく目を閉じると、心拍数が徐々に上がっていく。――と、そっと立ち上がらせられた。

 向き合って立つことになっても、彼の顔を見上げる勇気は湧かない。黙って先生のシャツのボタンなんかを見つめていると、先生がかがんだのか、私の視界に影が落ちた。柔らかく、頬に落ちてくるキス。その甘さにくらりとする。そのまま抱き寄せられ、暖かい腕の中に包まれた。


「合格ですか?」


 先生の胸に顔をうずめながら、冗談めかした口調で聞いてみる。

 もう数度目とはいえ、やはり恋愛初心者にとって告白は一大イベントだ。

 その上こんなに甘くされると、照れ隠しでもしないと耐えられなかった。


 ちょっと白々しい私の問いかけに、先生が頭の上でふっと笑いをもらす。

 そして後ろ髪を梳くように、心地の良い優しさで撫でてくれた。


「一緒にいるよ。君が望んでくれるなら」


 そっと落ちてきた声に、喉の奥が切なく詰まった。

 次々にこみ上げる色々な感情は、入り混じってぐちゃぐちゃだ。

 気持ちをこらえきれず、大好きな先生に、ぎゅっと抱き着いて甘えてみる。先生の胸から規則的な鼓動が聞こえて、それはとても心地よくて、いつまでもこのままでいられる気がした。


 涙でぼやける視界もこの切なさも、全部が幸せの証だ。

 うっかり涙をこぼして見つかってしまわないように、唇をかみしめてこらえながら、私はこっそり、くしゃりと笑う。


 誰よりも好きだと思った。

 冷たいふりをして、実は優しい。強引なふりをして甘くする。

 大人なのに、センセイの仮面は完璧じゃなくて、どこか不器用で。


 不安なことなんて忘れ去りそうなほどに、安らぎしかない穏やかな心。

 生徒でも、センセイでも構わない。きっと守れると思った。離れることじゃなく、そばにいることで。……だから、これだけは言っておかないと。


「先生。約束してくれませんか?」


 少しだけ身体を離して、先生の顔をじっと見る。先生は視線で何かと問うてきた。


「これから一緒にいて何か問題が起こっても、絶対に私に話してください」

「……。いいよ。君も同じように約束するならね」


 私の目を見返す一瞬の沈黙を挟んで、先生が答えてくれる。

 嘘のない穏やかなその声は、私の願いをちゃんと受け止めていた。

 きっと守ってくれるんだろう。適当そうに見えて、適当な口約束はしなさそうな人なのだ。それに自分で言うのもどうかと思うが、結局私に甘いひとだから……。リスクを恐れて張りつめていた心が、ほんの少しずつ和らいでいく。


「私も、約束します。あと、お願いはもう一つあるんですけど……」

「君も随分と我儘だね。せっかくこうしているんだ、少しはねだって見せようとは思わないか」

「えっ」


 私は面食らった。ああ、恋人になったからということだろうか。恋人ならばねだるものなのだろうか? でも残念ながら、私にはその手のことは不得意分野だ。悶々と悩んでいると、先生がふっと笑う。


「そんなに生真面目に悩まなくていい。君は本当に面白いね」

「……からかわないでください」

「からかっているわけじゃないさ。あれこれ要求してくる面倒な女は嫌いだが、君は別だ」


 また頬が熱くなってきて、私は視線をずらした。こうして狼狽するのはいつも私だけで、それは少し悔しい。悔しがったところで敵うはずはないのだが。


 私はねだる代わりに、再びぎゅっと抱きついた。何度でもこうしたいけれど照れもあるので、我慢して先生を見つめるだけにとどめつつ、彼への“お願い”を口にする。


「……私にも先生のこと、守らせてください。何があっても、先生が失職なんてしないように、一緒に頑張りますから」


 さっきタカシが言った失職と言う言葉が、妙に胸に残っていた。

 そんなことはさせない。先生は私を守ると言ってくれたけど、私だって同じ気持ちなのだ。


 ユキやタカシが教えてくれたこと。これからは先生も、そして私自身も守っていこうと思う。

 だから先生にも、私だけでなく先生自身も守ってほしい。先生は、私の願いに応えるように私の頬を撫でてから、口を開く。


「失職、ね。……俺がそんなにこの仕事に執着していると思う?」

「え……?」

「つまらなかったさ、授業中の俺を見ていたなら君も知っているだろう。どうでもよかった。辞めてやろうかと思うほど」

「っ、だめ、それはイヤです!」


 冗談だっただろうについ必死になって、強い口調で叫んでしまった。

 先生の少し面食らったような顔に、ふと我に返る。

 辞めるという言葉に過剰反応をしてしまったのは、彼に知らせず学校を辞めようとしていたことへの罪悪感故、かもしれない。


「あ……だって、先生がやめたら寂しいなって……」


 若干目を泳がせながら言い逃れようと試みる。

 ヒヤヒヤしたけれど、とりあえずは追及されなかった。

 いけない、もっとうまくやらないと。辞めようとしたことは秘密にしておくのだから……。


「つまらなかったなんて言いますけど、先生は、実は先生であることをまんざらでもなく思っていませんか。だから辞めてやろうかと思っても、辞めることはしなかった。そうじゃないですか?」


 誤魔化したい気持ちも手伝ってか、遠慮も放棄してずばりと突っ込む私。

 すると先生が押し黙った。よく見ないとわからないくらいに僅かな表情の変化だったけれど、ちょっと困ったみたいだ。珍しい表情、そんなことを見つけただけで嬉しくなる。これから先も、もっとたくさん見つけていけるのだろうから。


「君はもしかしたら俺以上に、俺のことをわかっているのかもしれないね」

「当然です。だって私、誰よりも先生が好きだから」

「君の気持ちは分かったよ。何度でも言ってもらって構わないけどね。今は、さっきの過剰な反応が意味するところを、潔く白状してもらおうかな」


 彼の言動に違和感を感じる。まるで知っているような口ぶりなのだ。

 でもそんなはずはないと、私はしらを切りとおした。


「別に何も……」

「最近ここに、お節介な君のクラスメートがよく来ていてね。さっきもまた来たかと思うと、興味深い話をして行った」


 お節介なクラスメート……ユキだ。さっき、ということは、きっと退学届の話だろう。

 どうやら私が更木さんと作業に行っている隙に、話されてしまったようだ。


「どうして止めてやろうかと思っていたが、その様子だと、もう予定変更したのかな」

「……すいません」

「君は本当に困った生徒だ。ここまで手に余ると、逆に指導のし甲斐もあっていいけどね……」


 私の髪を指先で弄びながら、至近距離のきれいな顔が、若干意地悪く口角を釣り上げる。

 ……どうしてだろう。彼のこの表情に強く惹かれてしまうのは、初めのころから変わることがない。


 視線ひとつで、彼は容易に私を捕まえる。

 これからはもう少し慣れていかないといけないと思った。

 私を翻弄する、私に向いてくれた彼の心を、冷静に受け止められるくらいには。


「ああ、生徒というのはもう違うかな。恋人なんだろう?」

「!」


 どきりとした。恋人と言う単語が先生の口から出たというだけで、ここまでときめくのは私くらいだろう。先生の恋人になったのだと、それを実感してしまってなんだか落ち着かない。私だけが知っている、彼の視線に含まれる甘さを過剰に意識してしまった。

 先生の瞳の熱を冷静に受け止められる日がくるのなんて、まだまだ先のことになりそうだ。


 目を逸らせないまま言葉に詰まる私を一瞥し、先生が笑う。

 ……優しい笑みだった。今まで見たこともないほど。


「義務感だけで立っていた教室の中、君はとても異色な存在だった。感情をそのまま表している子供たちの中で、君はどこか自分を抑えていただろう。それなのに君の俺を見る目はいつも、強く何かを訴えていた」

「……それは、」


 好きだったから、と説明づけようとして、私はそれをやめた。

 そんなことは説明しなくてもとっくにわかっているだろうから。


「少しだけ興味があったよ。つまらない日常に、君の存在は僅かな色を付けてくれた。でも所詮はただの生徒だと、それだけの認識だった。一応、教師としてのモラルは大事にしているつもりだったからね。あの日、あの場所で君に会うまでは」


 あの日、あの場所――先生が煙草を吸っていた旧校舎。

 彼を見つけたあの瞬間、すべてが始まったと思っていた。

 でも私の心も、……もしかしたら先生の心も、それ以前からすでに動き出していたのかもしれない。


 不意に、先生の指先が私の輪郭をなぞる。

 そして顎に触れ、顔を上向かせられた。

 触れられた個所から熱が生まれる。先生の指の動きに、全神経が集中するみたいに。


「あの時誘いに乗ったのは、教室以外の場所で、君自身の表情を見てみたかったからだ」


 吐息が触れ合うほどの距離で、先生が私に甘くささやきかける。


「キスの仕方は知っているか?」


 言葉を失ったみたいに、私は何も言えない。心臓が爆発しそうなほどに、張りつめていた。


「教えてやるよ。君が上手くできるまで、何度でも……」


 間近で微笑む彼の瞳は、強い熱を孕んで私を捉えた。呑まれそうな鼓動の中、近づく距離感に目を閉じる。――瞬間、今まで感じたこともないような強烈な感情が、私を支配した。


 言葉なんて、もう要らないと思った。

 彼は私にそっと教える。易しいキスの仕方を。


 出会わなければ、私はきっと何も知らなかった。触れるたびにこみ上げるのは、泣きたくなるほど愛しい気持ち。甘さも、苦さも、こんな幸せも。教えてくれたのは、先生。


 その優しいキスの仕方で、想いは簡単に溢れ出した。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ