最終章 “So Into You”〔完〕
「私……大人になりたかったんです。好きな人を守れるように」
黙って耳を傾けてくれる先生の前で、私はいつしか懸命になっていた。
「でも大人になったつもりで、私は何も見えていなかった。もう一度やり直したいんです。どうすればいいですか? 教えてください、先生……」
伝えたい言葉がある。何度も伝えたその言葉を、以前よりももっと深い気持ちで。
遠回りしたけれど、伝えることを許してほしい。
彼の出す答えを待ちながら胸を騒がせていると、ややあって、優しい声が降ってきた。
「難易度は高くないよ。でもとても難しい。できる?」
黙って頷き、私は先生を見上げる。
「気持ちを正直に言ってみればいい。上手く言えたら、合格だ」
こうして視線を交わすたび増してきた愛おしさが、今、胸を埋め尽くした。
この気持ちを表現する、たった一つの言葉。彼は伝えてくれたから。私ももう一度、伝えたいから。それを許してくれたから。
息を吸う。そして慎重に、言葉を紡いだ。
「月原先生が好きです。私を恋人にしてくれませんか?」
言い切ると同時に高まった強い緊張で、思わず顔を伏せる。
きつく目を閉じると、心拍数が徐々に上がっていく。――と、そっと立ち上がらせられた。
向き合って立つことになっても、彼の顔を見上げる勇気は湧かない。黙って先生のシャツのボタンなんかを見つめていると、先生がかがんだのか、私の視界に影が落ちた。柔らかく、頬に落ちてくるキス。その甘さにくらりとする。そのまま抱き寄せられ、暖かい腕の中に包まれた。
「合格ですか?」
先生の胸に顔をうずめながら、冗談めかした口調で聞いてみる。
もう数度目とはいえ、やはり恋愛初心者にとって告白は一大イベントだ。
その上こんなに甘くされると、照れ隠しでもしないと耐えられなかった。
ちょっと白々しい私の問いかけに、先生が頭の上でふっと笑いをもらす。
そして後ろ髪を梳くように、心地の良い優しさで撫でてくれた。
「一緒にいるよ。君が望んでくれるなら」
そっと落ちてきた声に、喉の奥が切なく詰まった。
次々にこみ上げる色々な感情は、入り混じってぐちゃぐちゃだ。
気持ちをこらえきれず、大好きな先生に、ぎゅっと抱き着いて甘えてみる。先生の胸から規則的な鼓動が聞こえて、それはとても心地よくて、いつまでもこのままでいられる気がした。
涙でぼやける視界もこの切なさも、全部が幸せの証だ。
うっかり涙をこぼして見つかってしまわないように、唇をかみしめてこらえながら、私はこっそり、くしゃりと笑う。
誰よりも好きだと思った。
冷たいふりをして、実は優しい。強引なふりをして甘くする。
大人なのに、センセイの仮面は完璧じゃなくて、どこか不器用で。
不安なことなんて忘れ去りそうなほどに、安らぎしかない穏やかな心。
生徒でも、センセイでも構わない。きっと守れると思った。離れることじゃなく、そばにいることで。……だから、これだけは言っておかないと。
「先生。約束してくれませんか?」
少しだけ身体を離して、先生の顔をじっと見る。先生は視線で何かと問うてきた。
「これから一緒にいて何か問題が起こっても、絶対に私に話してください」
「……。いいよ。君も同じように約束するならね」
私の目を見返す一瞬の沈黙を挟んで、先生が答えてくれる。
嘘のない穏やかなその声は、私の願いをちゃんと受け止めていた。
きっと守ってくれるんだろう。適当そうに見えて、適当な口約束はしなさそうな人なのだ。それに自分で言うのもどうかと思うが、結局私に甘いひとだから……。リスクを恐れて張りつめていた心が、ほんの少しずつ和らいでいく。
「私も、約束します。あと、お願いはもう一つあるんですけど……」
「君も随分と我儘だね。せっかくこうしているんだ、少しはねだって見せようとは思わないか」
「えっ」
私は面食らった。ああ、恋人になったからということだろうか。恋人ならばねだるものなのだろうか? でも残念ながら、私にはその手のことは不得意分野だ。悶々と悩んでいると、先生がふっと笑う。
「そんなに生真面目に悩まなくていい。君は本当に面白いね」
「……からかわないでください」
「からかっているわけじゃないさ。あれこれ要求してくる面倒な女は嫌いだが、君は別だ」
また頬が熱くなってきて、私は視線をずらした。こうして狼狽するのはいつも私だけで、それは少し悔しい。悔しがったところで敵うはずはないのだが。
私はねだる代わりに、再びぎゅっと抱きついた。何度でもこうしたいけれど照れもあるので、我慢して先生を見つめるだけにとどめつつ、彼への“お願い”を口にする。
「……私にも先生のこと、守らせてください。何があっても、先生が失職なんてしないように、一緒に頑張りますから」
さっきタカシが言った失職と言う言葉が、妙に胸に残っていた。
そんなことはさせない。先生は私を守ると言ってくれたけど、私だって同じ気持ちなのだ。
ユキやタカシが教えてくれたこと。これからは先生も、そして私自身も守っていこうと思う。
だから先生にも、私だけでなく先生自身も守ってほしい。先生は、私の願いに応えるように私の頬を撫でてから、口を開く。
「失職、ね。……俺がそんなにこの仕事に執着していると思う?」
「え……?」
「つまらなかったさ、授業中の俺を見ていたなら君も知っているだろう。どうでもよかった。辞めてやろうかと思うほど」
「っ、だめ、それはイヤです!」
冗談だっただろうについ必死になって、強い口調で叫んでしまった。
先生の少し面食らったような顔に、ふと我に返る。
辞めるという言葉に過剰反応をしてしまったのは、彼に知らせず学校を辞めようとしていたことへの罪悪感故、かもしれない。
「あ……だって、先生がやめたら寂しいなって……」
若干目を泳がせながら言い逃れようと試みる。
ヒヤヒヤしたけれど、とりあえずは追及されなかった。
いけない、もっとうまくやらないと。辞めようとしたことは秘密にしておくのだから……。
「つまらなかったなんて言いますけど、先生は、実は先生であることをまんざらでもなく思っていませんか。だから辞めてやろうかと思っても、辞めることはしなかった。そうじゃないですか?」
誤魔化したい気持ちも手伝ってか、遠慮も放棄してずばりと突っ込む私。
すると先生が押し黙った。よく見ないとわからないくらいに僅かな表情の変化だったけれど、ちょっと困ったみたいだ。珍しい表情、そんなことを見つけただけで嬉しくなる。これから先も、もっとたくさん見つけていけるのだろうから。
「君はもしかしたら俺以上に、俺のことをわかっているのかもしれないね」
「当然です。だって私、誰よりも先生が好きだから」
「君の気持ちは分かったよ。何度でも言ってもらって構わないけどね。今は、さっきの過剰な反応が意味するところを、潔く白状してもらおうかな」
彼の言動に違和感を感じる。まるで知っているような口ぶりなのだ。
でもそんなはずはないと、私はしらを切りとおした。
「別に何も……」
「最近ここに、お節介な君のクラスメートがよく来ていてね。さっきもまた来たかと思うと、興味深い話をして行った」
お節介なクラスメート……ユキだ。さっき、ということは、きっと退学届の話だろう。
どうやら私が更木さんと作業に行っている隙に、話されてしまったようだ。
「どうして止めてやろうかと思っていたが、その様子だと、もう予定変更したのかな」
「……すいません」
「君は本当に困った生徒だ。ここまで手に余ると、逆に指導のし甲斐もあっていいけどね……」
私の髪を指先で弄びながら、至近距離のきれいな顔が、若干意地悪く口角を釣り上げる。
……どうしてだろう。彼のこの表情に強く惹かれてしまうのは、初めのころから変わることがない。
視線ひとつで、彼は容易に私を捕まえる。
これからはもう少し慣れていかないといけないと思った。
私を翻弄する、私に向いてくれた彼の心を、冷静に受け止められるくらいには。
「ああ、生徒というのはもう違うかな。恋人なんだろう?」
「!」
どきりとした。恋人と言う単語が先生の口から出たというだけで、ここまでときめくのは私くらいだろう。先生の恋人になったのだと、それを実感してしまってなんだか落ち着かない。私だけが知っている、彼の視線に含まれる甘さを過剰に意識してしまった。
先生の瞳の熱を冷静に受け止められる日がくるのなんて、まだまだ先のことになりそうだ。
目を逸らせないまま言葉に詰まる私を一瞥し、先生が笑う。
……優しい笑みだった。今まで見たこともないほど。
「義務感だけで立っていた教室の中、君はとても異色な存在だった。感情をそのまま表している子供たちの中で、君はどこか自分を抑えていただろう。それなのに君の俺を見る目はいつも、強く何かを訴えていた」
「……それは、」
好きだったから、と説明づけようとして、私はそれをやめた。
そんなことは説明しなくてもとっくにわかっているだろうから。
「少しだけ興味があったよ。つまらない日常に、君の存在は僅かな色を付けてくれた。でも所詮はただの生徒だと、それだけの認識だった。一応、教師としてのモラルは大事にしているつもりだったからね。あの日、あの場所で君に会うまでは」
あの日、あの場所――先生が煙草を吸っていた旧校舎。
彼を見つけたあの瞬間、すべてが始まったと思っていた。
でも私の心も、……もしかしたら先生の心も、それ以前からすでに動き出していたのかもしれない。
不意に、先生の指先が私の輪郭をなぞる。
そして顎に触れ、顔を上向かせられた。
触れられた個所から熱が生まれる。先生の指の動きに、全神経が集中するみたいに。
「あの時誘いに乗ったのは、教室以外の場所で、君自身の表情を見てみたかったからだ」
吐息が触れ合うほどの距離で、先生が私に甘くささやきかける。
「キスの仕方は知っているか?」
言葉を失ったみたいに、私は何も言えない。心臓が爆発しそうなほどに、張りつめていた。
「教えてやるよ。君が上手くできるまで、何度でも……」
間近で微笑む彼の瞳は、強い熱を孕んで私を捉えた。呑まれそうな鼓動の中、近づく距離感に目を閉じる。――瞬間、今まで感じたこともないような強烈な感情が、私を支配した。
言葉なんて、もう要らないと思った。
彼は私にそっと教える。易しいキスの仕方を。
出会わなければ、私はきっと何も知らなかった。触れるたびにこみ上げるのは、泣きたくなるほど愛しい気持ち。甘さも、苦さも、こんな幸せも。教えてくれたのは、先生。
その優しいキスの仕方で、想いは簡単に溢れ出した。