52
嵯毅の家から帰った夜、僕はハシブトの部屋にいた。
かつて美野里がいたこの部屋には、美野里がいなくなってハシブトの部屋になっていた。
タンスとベッド、学習机があるけれどほとんど物がない殺風景な部屋。
僕のそばには横になるハシブト。体を起こして僕を見ていた。
顔色はそんなに悪くない、だけど目だけは異様に赤い。
呪術の時に見せた血のような赤い角膜は不気味だった。
それでも目尻を下げては僕を見ていた。
細身のハシブトに上からジャンパーをかけていた。
「ハシブト、大丈夫か?」
「もう心配はないのだ、わしは大丈夫だぞ」
「本当にか?」
学習机の椅子に座っていた僕はじっと見ていた。
「ああ、心配をかけたようだ。ただのインフルエンザだぞ」
「いつまで人間でいられるんだ?」
「喜久、何を言っているのだ?」
とぼけるハシブトに、僕はまっすぐな目で言い放った。
僕から視線を逸らしたハシブトは、部屋に置いてあった鏡に視線を移す。
「聞いたぞ、イエイヌから。ハシブトの魂が消耗して近いうちにカラスに戻るって」
「そうか」ハシブトはため息交じりに言い放った。
僕は次の言葉にも待つ。ハシブトは真剣な顔で僕の顔をじっと見ていた。
「いつまでもつんだ、ハシブトの魂?」
僕の言葉に、少しハシブトが間を開けた。
「おそらく三日だろう」
「そんな……」
「すまぬな、胸もまだ痛いのだ」胸に手を当てて首を横に振っていた。
豊満な胸に落ち込んだ顔のハシブトは、深いため息をついた。
「ハシブト、なんでカラスに戻らないんだ?戻れないのか?」
「喜久、理由は分かるか?」
「なんだよ?」
「わしはここに……いたいのだ」
「なんでだよ、僕の事……」
「孤独なカラスに戻るのが嫌なのだ!」
「ハシブト……」
切羽詰まった顔でハシブトは、うつむいてしまった。
「カラスはペットになりえない。わしはカラスになれば別れなければならない」
「そんなことはない、僕はハシブトのことが……」
「わしは人となって多くのことを調べた。
今の世の中だと、カラスは嫌われ者だと。
当然カラスに戻ってしまえば、喜久とこうして話すこともできない。
情けない話だが、カラスに戻るのが今は……怖い」
悲壮な顔になったハシブト、今にも泣きだしそうだ。
遭難したあの時以来のハシブトの顔、僕も同じだった。
「そんなことはないよ、カラスだって生きているんだ。僕は守るよ」
「喜久……やはり優しいな」
「僕がいつまでも守るから、カラスになっても守るから」
「それはできぬ」
「なぜだよ!」
「喜久が孤独になってしまうからだ」
ハシブトが僕の頬から手を離した。
口惜しそうにハシブトの顔を覗きこんだ僕は、それでもハシブトの手を引いた。
「喜久はわしの様なカラスといるべきではないのだ!」
「ハシブト、僕は……」
「喜久、わしこそごめん」
落ち込んだ顔のハシブトは、体を震わせていた。
うつむいて大きくため息を吐いた彼女はとても弱弱しかった。
「喜久は、久兵衛殿に似ているな」
「久兵衛さん?僕が?」
「優しくて、暖かい、娘のことを考えていて、わしを好きでいてくれた」
「その人と僕が似ているって?」
「そうだとも。だからこそわしは彼の遺言を全うしたいのだ」
「遺言?」
「『わしの代わりに、わしと同じ孤独な人を癒してほしい。
そのことが産まれてくれたぬしたちへの、存在意義だと思ってくれるなら嬉しい』と」
ハシブトはその言葉を誇らしげに語った。
僕は赤い目のハシブトの顔をじっと見て聞いていた。
「それまではわしに多くの孤独を癒させてくれ。わしは好意ある喜久のそばで」
情けなくて泣きそうな僕に、ハシブトは笑顔を見せてくれた。
無意識のうちにハシブトを強く抱きしめていた。
「ハシブトのこと、僕が何とかする!」
「喜久はわしに多くのものを与えてくれた。ありがとうなのだ」
「何を言っているんだよ、諦めるなよ!」
「喜久……」
穏やかなハシブトは、僕の前で頭を撫でてくれた。
赤い目のハシブトはいつも通りの笑顔を見せていた。
だけどその顔にはすでに元気が無くなっていた。




