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今日も、ツグミの声が聞こえた。
冬空に聞こえる鳴き声は、切ない。
私はいつも通り、娘と一緒にいた。
小学生に上がった娘と私の二人暮らしは、二年前。
娘は、立派に育っていた。
私にとって娘は、最後の希望。
妻の顔写真が飾ってある仏壇に、手を合わせていた。
それが日課だったから。
決して完全な幸せではないけれど、二年前の傷を癒していた。
そうなのだ、私は娘がいる限り孤独ではないのだ。
だけど、それは突然やってきた。
僕の確信は、無残に打ち崩された。
正直、ショックだ。
僕は、今教科書の前でうずくまっていた。
重い顔で、ぼんやりと教室の中を見ていた。
そこは、いつもと同じ授業の光景。
僕たちの学校は、ごく普通の進学校。特徴はそれぐらいしかない。
今、ホワイトボードには日本史の言葉が並んでいた。
前の教壇で、クラスの担任でもある脇坂(先生)が授業を進めていた。
生真面目な大人の雰囲気で、七三分けの中年男は、教科書を棒読みの様に読んでホワイトボードに書きすすめた。
脇坂の授業では、眠っている生徒やおしゃべりも多い。単調な授業なのでみんな、だらけるのだろう。
「これは、生類憐みの令って言って、徳川綱吉が施行した文門である」
茶色のスーツの脇坂は、教科書片手に几帳面にホワイトボードに文字を書く。
この脇坂には、一つだけタブーがあった。
それは、脇坂の奥さんが二年前の夏に、亡くなったということ。
「喜久、知っているか?」
隣の安志は、僕に話しかけてきた。
「安志……」
「今朝、交通事故があったみたいだぜ」
「事故なら、どこにでもあるだろ」
「それが、ひき逃げ事故だったらしいんだ。『分間街道』で」
『分間街道』とは、取井出市の外れにある二車線の街道。
川に挟まれた取井出市では、何本もの橋があって川をいくつも超える大きな道路だ。
街道は市街地を迂回して南北に枝分かれするので、僕達の通学路になってないのでなじみはない。
最大の特徴は、狭い生活道路がいくつも街道と交わるがなぜか信号機の設置が少なく、事故が多いこと。
「いつもの事だろ、車がスピード出してくるし。あそこは事故多いからな」
「でな、そのあと『おまわり』がここに来たってわけだよ」
「もしかして、犯人ウチの学校の人?」
「さあな、分からねえよ。職員室も、生徒立ち入り禁止になっていたし。
そんなことより、喜久……」
安志の言いたかったことは分かった、だから僕はため息をついた。
「安志、ほっといてくれ。忘れたいんだ!」
「ハシブトさんは、お前のことが好き……じゃなかったみたいだな」
「ああ、まんまとフラれたよ」
ちょっとうれしそうな安志が、僕は恨めしい顔で見返していた。
僕は、風呂上りにハシブトに告白した。
「僕はハシブトが好きだ、ずっと気になっていたんだ!」って風呂で大声を出して叫んだ。
黒パジャマ姿のハシブトは、いつも通り穏やかな目で僕に語りかけた。
「『わしは、人を好きになるとかそういう感情はないのだ』だって」
「まあ、仕方ないだろう。ハシブトさんは、本当に人を癒したいだけ、だもんな」
「あのさ、安志は、結局諦めたのか?」
「ああ、ハシブトさんにいろいろ相談に乗ってもらって分かったんだ。
亜美姉ちゃんは二度と戻ってこない。俺はただ、理解してくれる女を求めていたんだって。
だから、今度からは男を求めるって」
「マジ?」僕は聞き返すと、安志は僕の方を卑しい目で見てきた。
「そうだ、男トゥ男。通称『BL』なるものだ。
孤独にならないためには、誰かと一緒にいればいい。それは女ばかりじゃなくて……」
「本気で言っているのか?」
「そうだ、俺と結婚してくれ」
求愛のポーズをしてきた安志、僕の背中に悪寒が走った。
「ま、やめてくれって、僕はそんな趣味はない!」
「……わははっ、冗談だってーの」いたずらっぽく笑ってきた安志。
「なんだよ、いきなり迫ってくるから」
「俺は、それでも女は好きだ。安心してくれ」
「その方が、健全だ」
そんな僕と安志の茶番劇に、一瞬脇坂と目が合ったけれどすぐに教科書を見て授業を続けていた。
「でも、ハシブトさんはお前に譲るよ、って俺の立場がないだろ」
「面目ない」
「謝るなって、ハシブトさんはそれだけ難しい相手なんだよ。結局、亜美姉さんと一緒なのかもしれない。
みんなに優しいアイドルタイプは、落とすのが大変なんだよ」
その言葉が出ると、安志の顔が神妙になった。
「まあそんなハシブトも、今日はインフルエンザだけどな」
僕はちらりと前の空席を見ていた。そこは、ハシブトの席。
ハシブトの席には、ハシブトは居なかった。




