#036『雨の匂いが変わるまで』
なぜなのかわからないんですが、雨が好きです。
理由は本当にわかりません。ですが、雨の日にベランダに椅子を持ってきた、読書をするのって最高です。ペトリコールとかを感じると、幸せです。
変ですかね?
これは、「雨の日の恋とは呼べない高校生の物語」です。読んでいただけると嬉しいです。
『雨の匂いが変わるまで』
雨の日の匂いは、どこか鉄の味に似ている。
校庭の黒土が水を吸って重たく沈み込み、アスファルトの凹凸にできた水たまりが、どんよりとした鉛色の空を映し出していた。
六月の十五日。木曜日。
六時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、教室の中は一斉にざわめき出した。パイプ椅子の脚が床を擦るキィという高い音、鞄のジッパーを開け閉めする音、そして「ねえ、カラオケ行く?」「雨やばくない?」といった声の群れ。
私は教科書の角とノートの端をきっちり揃えて鞄に突っ込んだ。隣の席の女子が勢いよく立ち上がり、私の机の端に鞄を引っかけて通り過ぎる。「あ、ごめん」とも言わずに去っていく背中に、私は小さく首をすくめて、消しゴムのカスを指先で丸めながらうつむいた。
みんなが急いで傘をさして校門へと向かっていく、その雑多な波に巻き込まれたくなかった。私は昔から、人が大勢集まる場所や、賑やかな輪の中にうまく入っていけない。だからいつも、ノートの端を直したり、文房具を一本ずつ筆箱に戻したりして、教室に一人になるまでの時間を稼ぐ。
静かになった教室で、窓枠に置かれた観葉植物の葉から一滴の雨粒が伝い、静かに落ちていくのを見届けてから、私は席を立った。
鞄を抱えるように胸元で持ち、渡り廊下を通って一階の下駄箱へ向かう。
校舎の古い木床は、私の歩幅に合わせてポコポコと小さな声を上げた。外からは、バケツをひっくり返したような激しい雨音が校舎全体を揺らしている。
下駄箱の自分のマスに手を伸ばし、指先がすっと空を切った。
「……あ」
傘立てには、濡れた傘が数本無造作に転がっているだけだった。朝、自分で白いマスキングテープを柄に巻き、小さくイニシャルを書いておいた私のビニール傘がない。
誰かが間違えて持って行ったのか、それとも自分の傘を探すのが面倒で適当に持っていかれたのか。
傘立ての冷たい鉄枠を指先でなぞると、水滴が人差し指に伝ってポタリと落ちた。
職員室に行って「傘がありません」と言う自分の姿を想像してみる。先生たちが一斉に振り返り、誰の傘だ、名前はどこに書いてあったかと大きな声で聞かれ、周囲の生徒に見られる光景。想像しただけで胃のあたりがキューッと硬くなった。
(……いいや。走ればいい。走れば五分くらいで駅に着くし)
そう自分に言い聞かせ、下駄箱からスニーカーを取り出して、かかとをトントンと地面に打ち付けた。その時、背後の薄暗い廊下から湿った靴底の足音が近づいてきた。
「うわ、まだこんな降ってんのか……」
ぼそっと呟く低めの声に、肩がびくっと跳ねた。
振り向くと、同じクラスの橘隼斗くんが、濡れたジャージの袖で額の汗を拭いながら立っていた。陸上部で、いつも教室の後ろの席で男子数人と低い声で笑っている人だ。話したことなんて、プリントを後ろに回す時に「はい」「あ、サンキュ」と一言二言交わすくらいしかない。
橘くんは私に気づくと、一瞬「あ」と口を開け、気まずそうに視線を泳がせた。靴箱の自分の場所へ歩み寄り、泥のついたグラウンド用シューズをビニール袋の中に突っ込んでいる。
「……傘、忘れたの?」
橘くんが、自分の靴底の泥を払いながらボソッと言った。
「……ううん。持ってきたんだけど、なくなっちゃって」
私も自分の靴先を見つめたまま、消え入りそうな声で答えた。
「そっか。……俺も、置き傘ねえや」
橘くんは短く切った髪をガリガリとかいた。彼の手には、金属の丸いリングに通された重たそうな真鍮の鍵が握られている。使い込まれて角が削れた、部室棟の「放課後の鍵」だ。
「……それ、職員室?」
「あ、うん。先生に返してきてって頼まれて」
橘くんはキーホルダーを指先で弄びながら、外の土砂降りを苦い顔で見つめた。
「じゃあ、俺、これ返して帰るわ」
「……あ、私も職員室の方、通るから」
なんとなく、一人で下駄箱に残されるのが耐えられなくて、私は橘くんの半歩後ろをついて歩き出した。
薄暗い一階の廊下。二人の靴底が湿った床を踏む音がペタペタと響く。外の激しい雨音のせいで、二人の間の沈黙がやけに重く感じられた。
橘くんはポケットに両手を突っ込み、少し猫背気味に歩いている。彼の首筋から、濡れた土の匂いと、洗いたての柔軟剤の甘い香りが混ざり合った匂いがほんのりと漂ってきた。
職員室の前の返却箱に、橘くんが鍵を落とす。チャリンと硬い金属音が鳴り、静寂に吸い込まれていった。
「じゃ……俺、走るから」
「うん」
「……あ、吉野さん、気をつけてな」
去り際、彼が急に私の名前を呼んだ。
吉野萌夏。私の名前だ。
自分の名前を彼に呼ばれたことなんて一度もなかったから、胸の奥がキュッと強く引っ張られたみたいになった。
橘くんは玄関のステップに立つと、意を決したように深呼吸をし、頭から雨の中に飛び込んでいった。一瞬で彼のグレーのジャージが黒く染まっていく。
水たまりを力強く蹴り上げ、雨を切り裂くように校門へ向かって走っていく背中。
私は柱の陰に身を隠しながら、その背中をじっと見つめていた。
いつもなら、私は誰もいなくなった校舎のベンチで、雨がやむまで静かに文庫本を開いているはずだった。波風を立てず、誰の目にも留まらない安全な場所で時間をつぶすのが私の日常だったから。
けれど、いまの私の中にあったのは「雨がやむのを待つのが嫌だ」という理由だけじゃなかった。
濡れた雨の中に迷いなく飛び込んでいった彼の背中。
さっき私の名前を呼んだときの、少し低くて照れくさそうな声。
雨の中を遠ざかっていくその後ろ姿を見つめているうちに、胸の奥で見たことのない小さな感情がはじけた。
あの人がためらわずに飛び込んでいった雨の中なら、私も行ける気がした。
彼の背中が見えなくなったあの坂道の先へ、一刻も早く追いかけていきたい——。
自分でも信じられないくらい唐突で、無謀な衝動だった。
けれど私は、鞄を胸の前に固く抱え込むと、迷いを振り切るようにして雨のカーテンの中へと足を踏み出していた。
冷たい!
頭頂部に氷水を浴びせられたような衝撃。一秒も経たないうちに髪が顔に張り付き、制服のブラウスが重たく皮膚にくっついた。靴下が水を吸ってズクズクと重くなり、足首が冷たさで痺れてくる。
坂道をがむしゃらに下った。視界が雨水で滲み、息が苦しい。
でも、校門を出てすぐの交差点にある小さな街区公園まで来たとき、どうしても足が動かなくなった。体温が一気に奪われ、歯がガチガチと音を立てて鳴り始めたからだ。
私は公園の入り口にある、小さな公衆トイレの軒下へ逃げ込むように飛び込んだ。
「はぁ、はぁ……っ!」
コンクリートの軒下に入り、腕を抱きしめて体を丸める。
濡れたブラウスが風を吸って氷のように冷たい。スカートは太ももにへばりつき、下着まで水が染み込んでいるのが分かった。いくらなんでも勢いだけで飛び出しすぎた。こんな惨めな格好で電車に乗るなんて無理だ。
その時、公園の入り口からザザーッと水たまりを弾く激しい足音が聞こえてきた。
現れたのは、さっき走っていったはずの橘くんだった。
彼も全身ビショビショで、髪から水滴をポタポタと落としていた。公園の入り口を通り過ぎようとしていた橘くんは、公衆トイレの軒下で小さくなっている私に気づき、ハッと足を止めた。
「吉野……さん⁉ なんでいるの⁉」
「あ……橘、くん……っ」
寒さで声が上手く出ない。
橘くんは荒い息を吐きながら、慌てて私の方へ駆け寄ってきた。それから、私が抱えている濡れた鞄と、水を含んで肌にぴったりと張り付いたブラウスを見て、気まずそうに視線を横へ逸らした
「おまえ……なんで走ってきたんだよ。傘なしで……」
「……橘くんが、走っていったから……っ」
口から出てから、あまりにも正直すぎる理由に自分で顔が熱くなった。
橘くんは困り果てたように眉を八の字にし、ガリガリと頭をかいた。それから、肩に背負っていた防水のスポーツバッグを地面にドサッと置いた。
ジッパーを開け、ガサゴソと中を探る。取り出されたのは、厚手のジップロックに入った大判のスポーツタオルと、綺麗に畳まれた白Tシャツだった。
「これ、使えよ」
橘くんは視線を明後日の方向に向けたまま、それを差し出してきた。
「え……でも、橘くんの着替えでしょ?」
「陸上部、朝練と午後練でシャツ替えるからさ。鞄の底にいつもジップロックで予備入れてんだよ。濡れてねえから大丈夫」
「……でも、橘くんが寒くなっちゃうよ」
「俺は走ればすぐ家だから平気。……吉野さん、その格好じゃ電車乗れないだろ」
ズバリと言われて、顔がカッと熱くなった。
確かに、このブラウスは濡れて透けてしまっているかもしれない。電車の中で人目に晒される恐怖が、冷たさとは別の寒気となって襲ってきた。
「……うん。でも……どこで着替えればいいの……?」
私が公衆トイレの建物を不安そうに見つめると、橘くんはすぐに察したように頷いた。
「このトイレ、多目的トイレがある。中にちゃんと鍵もかかるし、照明もつく。……それに、俺がトイレのアプローチのところでずっと立ってるから。誰も来ないように見張ってる」
橘くんはそう言って、周囲の暗がりや公園の入り口をキョロキョロと確認した。
雨の中、彼が入口の街灯の下に立ち、周囲をしっかり警戒してくれている姿を見て、私の胸の中にあった不安がすっと薄らいでいった。
「……わかった。着替えてくるね」
「おう。ゆっくりでいいからな。誰か来そうになったら声かける」
私はタオルとTシャツを受け取り、多目的トイレの重いドアを開けて中に入った。
施錠のレバーをカチリと回すと、赤く「使用中」のマークが点灯する。室内は清掃が行き届いていて、ほっと息が漏れた。
……でも、今度は別の緊張が押し寄せてきた。
男子のTシャツを着ること。
外には橘くんが立っていて、私が服を脱ぐ時間をすぐ近くで待っているということ。
(……見ないで……ね)
届くはずのない声で小さく呟きながら、湿って皮膚にへばりついたブラウスのボタンを、かじかんだ指先で一つずつ外していった。
冷たい布地が皮膚から離れるたび、小さな摩擦音が静かな個室に響いた。濡れたシャツは驚くほど重く、脱ぎ捨てるのに一苦労した。ブラウスをきつく絞り、橘くんから借りたTシャツに頭を通す。
……ぶかぶかだ。
首元が大きく開き、袖は肘の下までスッポリと隠れた。Tシャツからは、柑橘系の柔軟剤の匂いと、どこか日なたのような甘い匂いがした。男の子の服を着ているという事実が、顔をどんどん熱くさせていく。
タオルで髪を丁寧に拭き、濡れた制服をビニール袋にまとめると、私はゆっくりとドアの鍵を開けた。
カチャリという音とともに外に出ると、雨の中で背中を丸めて立っていた橘くんが、ビクッと肩を揺らして振り返った。
「……あ、終わった?」
ダボダボのTシャツを着た私を一瞬だけ見ると、彼は「うっ」と息を詰まらせ、すぐに視線を自分の足元へ落とした。そのまま耳の端っこを真っ赤にして、気まずそうに首の後ろをかいている。
「……サイズ、デカすぎたな。ごめん」
「ううん。すごく温かい……。本当に、ありがとう」
橘くんは「おう」と短く言うと、公衆トイレの深い軒下へ入ってきて、壁にぽんと背中を預けた。外は相変わらず土砂降りで、二人で雨宿りをすることになった。
雨が屋根を叩く重い音が流れる中、私はずっと胸の中にあった疑問を、思い切って口に出してみることにした。
「……ねえ、橘くん」
「ん?」
「なんで……こんなに親切にしてくれるの?」
橘くんは壁に頭を預けたまま、驚いたように目を丸くした。それから「え、なんでって……」と呟き、視線を泳がせた。
「……困ってただろ、普通に」
「それだけ……?」
橘くんは返事に詰まり、しばらく沈黙した。外の雨音だけが二人を包み込む。
彼は困ったようにふうっと息を吐くと、短く切った髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「……だってさ。吉野さん、いつも図書室の前のベンチにいるじゃん」
「あ……うん」
「俺……先月の地区大会で、フライングして失格になったことあってさ」
あ、と思い出した。先月の朝礼で陸上部の表彰があったとき、彼だけが賞状を受け取らず、一人で悔しそうに下を向いていた姿。
「あのとき、めちゃくちゃ落ち込んで……部活の帰り、校舎の渡り廊下歩いてたら、吉野さんがベンチで本読んでて。……周りがどんだけ騒がしくても、吉野さんだけはすごく静かでさ。それ見てたら、なんか落ち込んでる自分が急にどうでもよくなったっていうか……救われたんだよ」
橘くんは言葉を選びあぐねるように、途中で何度かつっかえながら話した。
「だから……吉野さんが困ってんの見たら、そのまま帰れねえよ。……まあ、俺が勝手に思ってるだけだけど」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなった。
教室の隅っこで、ただ息を潜めていただけの私の時間が、彼の心を救っていたなんて。
「……私、ただ静かに本を読んでただけなのに」
私は膝の上で、ぶかぶかのTシャツの裾をギュッと握りしめた。
軒先から、雨だれが一滴、足元の水たまりに落ちた。
波紋がゆっくり広がって、次の一滴で重なる。
息を吸うと、雨の匂いと、借りたTシャツの柑橘の匂いが混ざって入ってきた。
「でも……橘くんが、グラウンドで走ってるところ……かっこいいと思ってたから」
言えた。でも、あまりの恥ずかしさに自分の声が震えてしまった。
橘くんは完全に固まった。それから、ゆっくりと両手で顔を覆った。
「……うわ、急にそういうこと言うなよ……恥ずかし……」
「本当だもん……」
言葉が途切れ、ふいに静寂が訪れた。
お互いに本音をこぼしてしまった後の、行き場のない気まずさ。私は慌てて視線を足元の水たまりに落とし、橘くんも壁の方向を向いたまま動かなくなった。
会話がうまく続かない。何を言えば正解なのか分からない。ただ、二人の少し早い息遣いと、コンクリートを叩く激しい雨音だけが、やけに大きく響いていた。
(……どうしよう。変なこと言っちゃったかな)
恥ずかしさで足の指先まで縮こまりそうになったその時、屋根を叩く雨音がふっと軽くなっていった。
ザァザァという重い音が、パラパラという細い音に変わる。雲の切れ間からオレンジ色の夕光が差し込んできた。
アスファルトの水たまりが、夕日を反射してキラキラと輝き始める。張り詰めていた空気が、光と一緒にふわりと解けた気がした。
「あ……止んだな」
橘くんが、少しほっとしたような声で空を見上げた。
「本当だ……」
私も弾かれたように顔を上げ、手元に抱えたビニール袋の中の濡れたブラウスを見つめた。
「服、明日洗って学校で返すね」
「いいよ。別に……急がなくても。……あ、あのさ」
橘くんはバッグを肩にかけ直すと、どこか落ち着かない様子で、ちらっと私を見た。
「……明日さ。放課後……また鍵返すの、手伝ってくれない?」
「え?」
「いや……俺、手ぇ汚いし。……それに」
そこで一度言葉を切り、橘くんは耳を赤くしながら少しだけ笑った。
「……吉野さんと話すの、もっとしたいから」
視線をあちこちに泳がせながら言った彼の姿に、胸の奥で小さな蕾がほころぶような感覚があった。
さっきまでの気まずさが嘘みたいに、今度は温かい風が通り抜けていく。
「……うん」
私は自分でもびっくりするくらい、素直に笑って頷くことができた。
「手伝うね。明日も」
公衆トイレの軒下から一歩外へ出ると、雨上がりの街は夕焼けで真っ赤に染まっていた。
濡れたアスファルトが光を反射し、風が吹くたびに街路樹から光る水滴が落ちて、私の頬をかすめた。その冷たさが、なんだかとても愛おしかった。
雨の日の匂いは、もう鉄の味じゃない。
夕焼けの暖かさと、借りたTシャツの柑橘系の匂いが、いつまでも胸の奥に残っていた。




