とある現実の禁書目録② 『ハックルベリー・フィンの冒険』
“子供に見せたくないアニメ”の中で常にトップ5に入るアニメと言えば『クレヨンしんちゃん』ですね。
他の4つは、過度に暴力的だったり過剰な性的表現がある物のようです。
『クレヨンしんちゃん』の場合は、そのギャグが現実に再現可能というのが、親が子供に見せたくない理由なのではないでしょうか。
例えば子供が、“かめはめ波”のポーズをしても、手から破壊光線は出ませんが、『クレヨンしんちゃん』の場合は、そのお約束のギャグが子供にもできます。
現実に『クレヨンしんちゃん』のマネをして下品な言動を子供がしたら、教育上良くないと判断する親が多いのかもしれません。
『ハックルベリー・フィンの冒険』は、『トム・ソーヤの冒険』の続編で共に著者は“マーク・トウェイン”です。
あらすじはというと、19世紀はじめ、アメリカ南部を舞台に、自由奔放な生き方を愛する腕白な少年ハックルベリー・フィン(ハック)と黒人奴隷のジムが自由州を目指し、ミシシッピー川を下って旅をするという物語が、当時の方言混じりのハックの口語体によって書かれています。その旅の途中で様々な人と出会い、様々な事件に遭遇するというロードムービー的な構成です。
“アーネスト・ヘミングウェイ”は、この作品を「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する。……すべてのアメリカの作家が、この作品に由来する。この作品以前に、アメリカ文学とアメリカの作家は存在しなかった。この作品以降に、これに匹敵する作品は存在しない。」と評価しています。
この作品は発表直後から、論争の的になりました。
1885年、マサチューセッツ州のコンコード公立図書館は、ハックとジムの下品な言葉使いや、行動が伝統的な道徳観に外れるとして、「スラムにおあつらえ向きの俗悪書」と非難して、禁書扱いにしました。
また、1902年にはコロラド州のデンバー公立図書館もこの本を禁書にしました。
ニューヨーク州のブルックリン公立図書館は、「ハックは言葉使いがメチャクチャで、“汗をかいた”で済む所を“汗みどろ”と言ったりする」と指摘して、児童図書館の棚から撤去しました。
旧ソ連では1930年に、この『ハックルベリー・フィンの冒険』は、『トム・ソーヤの冒険』と共に、国境警備員に押収されました。
米国内での論争は、いったん下火となり、それから半世紀ほどの間、『ハックルベリー・フィンの冒険』はアメリカ文学の傑作と謳われ、学校図書館の推薦図書リストの筆頭にも挙げられることになりました。
ですが、1957年に、有色人種地位向上全国協会が抗議運動を起こします。協会は、人種差別的な側面を持つこの本に異議を唱えて、同書をニューヨークシティーのハイスクールから一掃することを求め、同種の運動が次々と起こり、その種の批判や運動は現在まで続いているようです。
その後、様々な出版社から問題とされる箇所が削除された改訂版を刊行しました。
この小説で一番非難を浴びているのは、アフリカ系アメリカ人を差す差別的蔑称“ニガー”という言葉でした。
1975年ごろ、教科書出版社は全米の各学区から押された形で、“ニガー”という言葉を他の婉曲的表現に置きかえました。
例えば“ニガー”を“奴隷”や“召し使い”という表現に改めるといった具合です。
そう言えば、“アガサ・クリスティー”の名作『そして、誰もいなくなった』の舞台も、最初は“黒人島”だったのが、“インディアン島”になり、現在では“兵隊島”になっていますね。
検閲に詳しいドロシー・ウェザーズビーが1975年に書いた論文によれば、問題の言葉を残している出版社は、ジン&カンパニーのみだったそうです。
ただし、その教科書には『ハックルベリー・フィンの冒険』にはこの言葉が必要なのだと説いたアメリカの作家ライオネル・トリリングの評論があわせて収録されていたそうです。
現在の日本でも、似たような事がありますね。この間電子書籍で購入した手塚治虫作『奇子』の最後に「ご利用者の皆様へ この度電子書籍として送信された手塚治虫まんが作品には、様々な外国人が登場します。最近それらの一部の描き方に人種差別を助長するものという指摘なされております。私たちはこれらの作品が発表された当時、作者も差別を助長するような思いはまったくなかったものと認識しております。~」みたいな文が一頁にわたって載っていました。
話を元に戻すと、この小説の言葉使い、特に人種を指す言葉や、差別用語をめぐり、学区側からたびたび禁書処分を受けたり、抗議の対象となってきました。こうした抗議の多くは、中流階級に属する教養豊かなアフリカ系アメリカ人の保護者から寄せられていました。自分の子供にこんな表現を読ませたくないというのが、その理由だそうです。
この小説に対する諸々の批判を、まとめると人種差別用語があること、文法の誤りが見られること、そして作品全体を通じて奴隷制を否定する姿勢がない、という三点に要約できるとのことです。
最近のディズニー映画のポリコレ事情を見てみると、その内、多様性に配慮した黒いドナルドダックが登場しても驚きません。
「オラを真似したからってマサオ君はオラにはなれないゾ。なぜならオラはオラ、マサオ君はマサオ君だからだゾ」━━野原しんのすけ