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十分か十五分、二人して押し黙ったままだった。来る時に鳴いていたヒグラシの声も今は聞こえない。音らしい音と言えば、僕のすぐ右脇の車道を時折車が走っていくぐらいで。その去り際のライトが二人を照らしていく間だけ、重たい沈黙が闇の中から浮かび上がっていた。
気付けば最初の三叉路まで戻ってきてしまっている。
そんな時だ。不意にユカが立ち止まったのは。彼女は振り向いた僕にそっと声を掛けてきた。
「ねえ」
僕は少し遅れて応じた。
「……ん?」
ユカは慎重に、ゆっくりと、言葉を紡いでいく。
「……今の私には、カイ君のその気持ちに、これだって答えは示してあげられないけど……」
その話か。
「……ああ。
ごめん、もういいんだよ。何かほんと白けさせちゃって――
取り繕おうとした僕の言葉をユカが無視する。
「あの頃のカイ君に、謝るんじゃなくて」
そこから先は小さな子に諭すような口振りだった。
「ごめんじゃなくて……ありがとう、って言ってあげようよ」
……。
それは僕の頭に全くなかった言葉で。
馬鹿みたいに突っ立ったまま、ただ反芻するだけしか出来ないでいた僕に、ユカは言葉を重ねた。
「よくやってくれて、ありがとう……って」
たったそれだけの一言が、僕の体中に沁み渡っていく。
ユカは更に続けた。
「それに。少なくとも、私はあの頃のカイ君に感謝してるよ?」
……どうして、こんな僕なんかに……。
そもそも、そんな言葉を誰かに掛けてもらったのはいつ以来だろう。
「一緒にいてくれたじゃない」
「?」
「他の誰でもない。カイ君がいてくれたから、さっき話したような楽しい思い出が、私達との思い出がたくさん……たっくさん、……作れたんじゃない。
あの頃のみんなだって、絶対にそう思ってた筈だよ?
そりゃ今はそれぞれの事情があって、会ったり話したりってことは気軽に出来なくなっちゃったけど」
ユカは自分の足元へ視線を落とし、続けた。
「ありがとうって……思ってるから。
謝っちゃ、ダメだよ」
そうして顔を上げてから僅かに微笑み、歩き出していく。
ユカを追い掛けつつ、僕は不思議な温かさに包まれていくようだった。
謝るんじゃなくて……感謝する。……それで、良いんだろうか。
あの頃の僕も少しは……笑ってくれるだろうか。
ありがとう……。
そう言えば……僕も高校生の時はユカ達クラスメイトにそんな思いを抱いていた。
いや、サークルの連中に対してだって間違いなくそう思っていた時期があった。
『おめでとう』が言いずらくなった頃から僕は、自分と他人とを比べ始めた。だからこそ自分が生きている意味とか価値なんてものに考えを巡らせるようになったのだと。そう思い込んでいた。
けれど、もしかしたらそういうことではなくて――
ふと顔を上げれば、もう駅の階段の前に着いていた。
ユカが言う。
「着いちゃった……ね」
「……ああ」
少し後ろ髪を引かれる思いもあった。
けれど。
あの時の約束が雨で流れたように。今日だってもうここまで来てしまった。どうもこの二人は縁がないらしい。
僕はまた自嘲気味に口元を歪ませた。
ここから駅の階段を上り、僕は日常へ戻る。区切りを付けるべきか否か、そろそろ決めなければいけないあの場所へ。
ただその前に伝えておきたくて、僕はユカを正面から見た。
「ありがとうな。それと……すまなかった。みっともない話聞かせちゃって」
「ううん……」
ユカはそう言いつつ僕と視線を合わせて黙った。僅かの間だ。
すぐに彼女は続けた。
「……体に気を付けて、無理しないでね」
「ああ、ユカもな。……じゃあ――」
『行くわ』の三文字は、不意に鳴り響いたドォ……ン、という大音に掻き消された。駅の向こうの土手の方から上がった音だ。
振り返った僕とユカの視線の先で、土手側の夜空が一瞬だけ明るくなった。
なんで。
頭に浮かんだ疑問符さえも追い出す様に、もう一度。ドォ……ンと響いてきた。
直後、僕にユカが満面の笑みを見せ、強く言った。
「行こうっ」
「……あ、ああ」
昨日、って確かに書いてあったんだけどな。
僕は早歩きで行くユカを追い掛けつつ、頻りと首を捻った。しかし現に、先程のマンション前の通りまで来てみれば幾つかの人影が土手の方へと歩いていく。もう疑いようがなかった。
土手下の車道を横切る。
昼間一人で登った石階段を、今度はユカと上がっていく。
夜の土手にはもう秋を思わせる風が吹いていた。
鈴虫たちの奏でる調べを乗せた川音のさざめきが、左右の耳を優しく撫でていく。
僕らはアスファルト道を少し歩いたところで立ち止まり、川上の夜空を仰いだ。
それからすぐだ。
口笛に似た高い風切り音がしたかと思うや否、小さな火球が白い光の尾が引き連れ、高く高く上昇していって――
ふっ、と元の闇が訪れた直後に。
星屑でこしらえたような大輪の花がぱっと咲いて、夜空を照らしながら視界の外へ溢れ出していった。同時に低い大音が辺り一帯に響き渡る。そうして音は遠のき、花もまた光の残像と僅かな煙を置いて闇に消えていった。
その後も一発一発、腹の底を打つような音を轟かせて、夜空一杯に光の花が咲き誇っていく。幼い頃の記憶通りの、いや、それ以上に大きくて美しい花火だった。
ただただ見惚れている僕の横でユカがそっと語り掛けてくる。
「約束、10年越しになっちゃったね」
――覚えていたのか
彼女は穏やかに微笑んだ。
そして優しげな声で続ける。
「この景色はあの頃とちっとも変わってなかった。
カイ君も私が好きだったところはそのままだったみたいだし」
「え」
「一生懸命」
ユカは深い漆黒を湛える瞳で僕を見つめ、伝えた。
「……がんばってきたんだなって思って」
じ……んと目頭が熱くなり、ユカの笑顔がぼやけていく。
慌てて空の花火に視線を戻した僕に、彼女は続けた。
「また会おうよ。もっと色々なこと話したい」
「……うん」
小さく頷く僕の頬を涙が伝っていった。口をぐっとへの字に結び、何とか夜空を仰ぎ続ける。
視線の先で柳のように枝垂れる冠菊がゆっくりと咲いていった。
やがて細やかな光の花弁たちは幾百もの雫となって僕らに迫り、鮮やかと思う間に闇へ溶けていく。
その静かな終焉は次の季節の到来を優しく告げていた。