最終章 ふたつの風
「…暴走が、収まったみたいだな」
「そのようだ」
荒れ果てた地上を見渡しながら、少し安心した様子のメツスィーは呟く。じっと暴走の様子を見つめていたテスカトリポカも、その苦渋の面をほんの少し和らげた。
女物の少し動きづらい服の裾をまくり、メツスィーは突き出た岩の上に乗り、遠く――二人のかげを探した。ふと、大きくくぼんだ地面の上に、そろって倒れている少女と少年の姿を見つけた。
途端、メツスィーは叫びをあげ、二人の方へ駆け寄った。
「……! シェータ、アトル!!」
歩きにくい岩場を持ち前の身軽さで難なく乗り越え、メツスィーは二人の元へ辿り着く。
最初に、あまり外傷のないシェータの肩を軽く叩き、次に強く揺さぶった。
「シェータッ、おい! シェータッ!!」
返事はない。
「シェータッ……っ、駄目、だったのか……?」
その時だ。
「………んー………うぅ…」
「シェータ!」
「……………メツスィー…?」
メツスィーの目が驚きと歓喜に満たされる。彼はその黒髪を振り乱し、弱々しく目を開ける小さな少女神を抱き締めた。
少女神が苦しげに呻く。
「…んぅー……くるし…」
「ぁあ、悪い」
すぐにそのことに気付き、メツスィーはさっと腕を離す。
メツスィーの腕から解放され、ふぅ、とシェータは息をつく。その頬には赤みが戻り、長い髪も元の艶やかな白緑色に戻っていた。
ふと、急速に今までの出来事を思い出し、きょろきょろと周りを確認する。そして、すぐ傍にいた眠ったままのアトルを目にすると、今にも泣きだしそうな悲痛な面差しで、メツスィーを見上げた。
細々と、彼女は口を開く。
「………アトルは?」
「……………」
メツスィーは答えない。
その答えを知っていて、けれど答えることが出来なかったからだ。
――自分の感情を抑えられるか、不安で。
「草花係よ」
夜鳥を伴って、テスカトリポカが彼らの足もとに降り立つ。ふわりとその衣が風になびき、音もなく着地する。そしてかの神はアトルとシェータを交互に見、きっぱりと告げた。
「皇子は死んだ。お前を助けて…」
「……アトルが」
「シェータ………」
シェータは恐る恐るアトルの見た。そっと彼の頬に触れる。……冷たくて、ざらざらしていた。まるで……土のような肌触りだと……そう思っている内に、触れた肌がさらりと、砂となって落ちた。
そして堰を切ったように、さらさらと彼の体が砂となり、地面に落ちていった。シェータが今まで触れていた彼の肌は、いつの間にか細かい砂の粒になっていた。
「待って……まって……っ」
だんだんと形を失っていくアトルの頭を、零れてしまわないようにとシェータは両手で包んだ。けれど砂は彼女の掌から滑り落ちた。笑った彼の顔が、風に吹かれて消えていく。
「…まって………まっ…て………っ」
なおもシェータは、彼の顔を崩さないようにと、必死で包み込んだ。
けれど、全ては終わったことだった。今更もう、無駄だった。
ぽたりと、シェータの頬から、大粒の涙が伝わって零れた。零れたその雫は、少年の頬に落ち、その砂に吸い込まれてじわりと黒い染み跡がついた。
「……シェー…タ………」
メツスィーはシェータに手を伸ばそうとして、寸前で止まる。
自分はこの結末を知っていた。けれど彼を止められなかった。それは、自分の罪だ。
「…………って………」
砂を抱える指が震え、ぽたりぽたりと塩辛い雫が砂に落ちる。砂に水の跡が広がり、砂は土に、泥になった。
弱々しく微動する指から、ぽろ、と土が落ちた。
もう彼の顔は分からない。
「……ふ…っ、あ、ぁあ………っう、っうぅ……」
酷い痙攣を起こし、叫ぶことも出来ずに、苦しげに呻く。喉の奥に詰まった熱い塊が吐き出せない。
留めておきたくないのに、まるで喉を占められているように、苦しい。
「――――――ぁ」
さめざめと、涙ばかりが零れた。
嵐が収まったのを確認すると、徐々に民たちも現れてきた。所々目に映る酷い惨状にそれぞれものを言い合った。
「……なんてことだ」
「我らの国が―――こんな、ことに…」
「しっ、待て、お前ら―――」
民の一人が声を潜めて注意を促した。訝しげな顔をする民の一人の青年に、蹲っている少女の姿を示した。慌てて青年は口をつぐむ。
「………陛下、こちらです」
神官長の声だった。
『陛下』の言葉に反応し、民衆たちはびくりと驚きを露わにして、その声の方を振り向いた。
「……モテウクソマ・ショコヨトル陛下」
モテウクソマ・ショコヨトル--モクテスマ2世は、いつも通りのその穏やかな面差しで民衆たちを横目で確認し、そして、遠く、自らの皇子を見つめた。面長なその面に、困惑はない。
「……嵐は、収まったのか…」
「はっ………しかし…」
「よい」
何か告げようとした神官長を、片腕で制す。
モクテスマ2世は、変わらぬ表情のまま、小さな動作で荒れ果てた大地を見渡した。ぴゅうと一筋、細い風が吹く。少し長めの黒髪が風になびいた。辺りは妙に静かで、さっぱりとしていた。
わずかに声が震えたのを知られないように上手く隠し、モクテスマ2世は静かに言った。
「……アトルは、無事に神の元へたどり着けたようだな」
「………?」
「テスカトリポカが、力を持て余して大嵐が起きた」
モクテスマ2世は、重そうに引き締まった足を上げ、身にまとったマントをはらりと翻し、一歩前へと踏み出す。普通なら聞き取れないようなさらりと流れる砂の音が、なぜか耳にまとわりついた。
「…それが、アトルがウィツィロポチトリの元へたどり着き、そのことによって、かの神がテスカトリポカを制すことが出来たのだろう………」
「………」
王の意向を察した神官長は、ただただ黙って、目を伏せていることしかできなかった。少し、後ろめたいような気がして。
モクテスマ2世は短く命令する。
「皆に伝えよ」
「はっ」
「生贄の儀式は無事に完了し、ウィツィロポチトリは力を得た。心配することはない、と」
「………御意」
◆◆◆
「…これで、全て終わったのか……」
「ああ」
アトルがいた場所を動こうとしないシェータを置いて、メツスィーとテスカトリポカ、それに天界から戻ってきたコガラシは、メツスィーの小屋の前で、別れの挨拶を交わしていた。
メツスィーは彼らしくもない虚ろな眼差しで、黒いジャガーに身を扮したテスカトリポカに倣って、シェータのいる方向を見ていた。太陽は天上近くのぼり、夏を待つ木々たちに眩しい陽光を投じていた。
ざわざわと緑の葉が音を立て、彼らの間に爽やかな風が通り過ぎる。ふわりと、青い若葉の香りがした。
「……夏の匂いがする」
「ああ……シェータも、忙しくなるだろうな………」
「そのことだが」
黒いジャガーが、思い重低音の声で告げた。
「草花係は、天界に戻る権利を剥奪された」
メツスィーが、半開きだった目を見開く。
「……それは、どういう…」
「草花係は地上を壊した」
コガラシが、悔しげな表情で、上司の言葉を聞いていた。
「守るべきものを壊した神は、“神”とは言えないだろう」
「それは………」
「テスカトリポカ様」
コガラシがメツスィーの言葉を遮る。見れば、それ以上は聞きたくないというような、歪んだ顔をしていた。またメツスィーは、瞳を曇らせた。
「…そうだな、そろそろ、行くとしよう」
「はい……」
テスカトリポカは、黒い夜鳥を引き連れ、ふわりと宙に浮かび上がる。
頭の上のジャガーに、メツスィーは悪態をつく。
「…もう二度と、俺たち人間の前には現れないでくれ」
「そのつもりだ」
ジャガーは薄く笑う。
「さらばだ、人間」
そう告げ、黒き神は空の中に溶け込むように、静かに消えていった。
あとには、木枯らしの少女神と、女装の盗賊が残った。
ふと、コガラシはぽつりと口を開く。
「……きっと、循環する」
「…………?」
遠くを見つめるコガラシの横顔を、メツスィーは物寂しげな目で見つめる。彼女の灰色の髪が、さらりと揺れた。
「花は咲いて、枯れて……その種は、新たなものとなる………この世界の、全てのものは」
「循環……」
コガラシのようにメツスィーも遠くに視線を移そうとする。けれど、またすぐにこの少女に視線が戻ってしまった。
不意に、コガラシが振り向き、メツスィーの瞳を見つめる。メツスィーの胸がずきんと痛み、高鳴る。今までに感じたことのないような感情が、心の奥を支配した。
「私も、いつか---」
すっと、メツスィーの顔がコガラシに近づいた。コガラシが驚きで思わず言葉を失う。
そのまま彼は、意外にも小さかった体を包んだ。
「いつかは、ない」
彼女の肩越しに、呟いた。自分で何をしているか信じられない。信じられないけれど、これが全てで、自身だ。
「だから---」
ぽんぽん、と。
まるで小さい子にでもするように、コガラシはメツスィーの頭を軽く叩いた。沈み、強張っていた彼女の表情に、ふっと笑みが戻る。
「…全く、困った人間ね。これだから嫌だわ」
「……コガラシ」
「離して」
コガラシはするりと彼の腕から逃れ、間を取る。
そして、いつもと変わらない、凛とした態度で言う。
「そうね、『いつか』はないわ。おかしなことを言ったわね、悪かったわ」
「…コガラシ」
「私も、もう還るわ………さよなら」
「コガラシ…!」
振り向きもせずに、彼女は飛び立つ。光の眩しい午前の空へと。
「待ってくれ…!」
メツスィーは、届くはずもないのに、虚空に手をひたすら伸ばした。その間にも彼女の影はどんどん小さくなってゆく。
ついには、その姿は昼間の星のように、見えなくなった。
「コガラシ……」
ぴたん。
何か冷たいものが、伸ばした彼の手に振れた。2粒、3粒……。
「…雨か?」
そんなはずはなかった。
雲はほとんどなく、空は晴れ渡っている。雨雲なんてどこにも見当たらない。
「……はは、そんな訳があるか」
額を右手で押さえ、メツスィーはその場に蹲る。もうどうでもよかった。
「…はは、はははははは……」
そのせいで、それがかの少女神の涙だったとは、気づきもしなかった。
◆◆◆
壊れた大地に、少女はたった一人で座り込んでいた。
長い白緑の髪を垂らし、忘れられた人形のようにただただ俯いている。自分の握り拳をじっと見つめて。
拳の中には、さらりとした砂が握られていた。それは、かつて大好きだった人間の名残………。
ふいに風が吹き、髪がなびき、砂が零れ落ちていった。
……けれど、彼女の表情は失われたまま――。
……これから、どうしようか。
天界にも、戻りたくない。ずっとここにいたい。
けれど、アトルはいない。
あたしは、どうすればいいんだろう……?
その時、待ち望んでいた声が、響いて、反響した。
…シェータ。僕は、いるよ。
「アトル?」
少女は咄嗟に、声のした方向を見上げた。何もない、ただの虚空だ。
けれど彼女には見えていた。
空に、ふわりと浮かんだ、少年の姿が。
「……ア」
「シェータ」
くすんだ白色だった世界が、一気に生まれ変わった。
「アトル!!」
ぼろぼろ涙をこぼしながら、シェータはアトルに抱きついた。アトルもまた、嬉しさに顔をほころばせて、少女を抱きとめる。
「あとる……あとる…」
「…シェータ、泣かないで………」
アトルは、泣きじゃくるシェータの髪を、優しく撫でた。お互いに、懐かしい感触がどうしようもなく愛おしい。
「………」
どうして、なんてシェータは聞かなかった。
彼女はなんとなく感じていた。爽やかな、若葉の匂いを。
アトルはきっと、風になったんだ。
草原を駆け抜ける、初夏の風に。
少年は、心底嬉しそうに言う。
「僕はもう、自由だ。どこにでも行ける」
シェータも、満面の笑みを全面に浮かべた。
「うん」
アトルはシェータの手を取り、互いの顔を見合って、そして天を仰いだ。光に溢れて、眩しかった。
ふと、アトルは呟いた。
「旅に出よう」
シェータは、今までにないほど明るい彼の表情を見つめた。
「二人で、いろいろなものを見に行くのも、楽しいんじゃないかなって……」
「いいね!」
シェータは、つないだアトルの手を、まるで子供のようにぶんと振るって歓喜した。
そんな彼女を、アトルは微笑ましげに見る。
二人は同時に互いの手を引こうとして、そしてほぼ同時に始めの一歩を踏み出して拍子抜けした。
「シェータ」
「何ー?」
「……子供みたいだね」
「ほっといてってば!」
軽やかな笑い声を残して、大地を二つの風が駆けていく。
ようやく完結です!
というか、完結できてよかった………w
きちんと終了することが出来た作品は、これが初めてです。
始めは、「練習で一つ書いてみよう」という気持ちで書き始めたのに、いつのまにか想像が止まらなくなっていました。
恐ろしや…w
何はともあれ、度々更新日を遅らせたり、微妙に忠実とは違う部分があったりしたことにもかかわらず、読んでくださってありがとうございました!!




