その日、雨は止まなかった
雨だ。
カルタスト大陸では珍しくもない雨だが、その日の雨はどこか重たかった。
まるで、世界そのものが息を潜めているみたいに。
フィオラ
フィオラの朝は、パンの焼ける匂いで始まる。
「エリシアー!そっちのパン焼けてるから並べて!」
「今行くー!」
雨音の中、エリシアは慌ただしく振り返った。
市場通りには色とりどりの花が並び、濡れた石畳にはランプの灯りが滲んでいる。
フィオラは小さな街。
だけどエリシアは、この街が好きだった。
皆が顔見知りで。
雨の日には温かい紅茶を淹れて。
誰かが帰ってくれば、「おかえり」と迎える。
そんな当たり前が、ここにはある。
「最近また物騒らしいねぇ…」
パン屋の店主がぽつりと言った。
「……また、戦争ですか?」
「北側の方でね。ルーメリアとヴェルグレイヴがまた揉めてるとか」
ルーメリア。
ヴェルグレイヴ。
最近よく耳にする国の名前。
けれどエリシアにとって、遠い世界の話だった。
「……帰れなくなる人が増えるの、嫌だな」
無意識に零れた言葉に、店主は少しだけ困ったように笑った。
「優しいねぇ、お前さんは」
エリシアは曖昧に笑い返す。
優しいわけじゃない。
ただ。
”帰れない人”を、知っているだけだ。
神聖魔術国家ルーメリア 王都シュリンスト
同じ頃。
白い尖塔が並ぶ王都シュリンストでは、静かな鐘の音が響いていた。
空中に浮かぶ魔導灯。
紫光の流れる水路。
雨に濡れたステンドグラス。
人々は傘を差し、無言で石畳を行き交う。
美しい都だった。
息が詰まるほどに。
「……ペルリニエ様」
呼び止められ、青年は足を止める。
長い白銀の髪が揺れた。
紫水晶の瞳は静かで、感情を映さない。
「評議会より召集です」
「そうか、分かったよ」
ペルリニエ・フォン・ルーメリアは、小さく頷いた。
その姿は、まるで芸術品だった。
完璧な立ち姿。
乱れのない微笑。
誰もが憧れる、ルーメリアの象徴。
”そうあるよう”に育てられた、ルーメリア家の第1王子だ。
「ヴェルグレイヴとの境界線で衝突が起きています」
「被害は」
「双方に」
静かな返答。
感情は不要。
それがルーメリアだ。
「……分かった」
ペルリニエは窓の外を見る。
雨が降っている。
嫌になるほど。
「また雨ですね」
付き人が言う。
ペルリニエは僅かに目を細めた。
「止まない雨はないよ」
その声は優しかった。
けれど何故か、酷く冷たかった。
ヴェルグレイヴ国境地帯
鉄の匂いがした。
雨に濡れた黒剣が地面へ突き立てられる。
「負傷者を下げろ!」
怒号が飛ぶ。
泥と血の混ざる戦場で、一人の騎士が空を見上げていた。
黒髪。
青灰色の瞳。
長い外套は雨に濡れて重い。
アルヴィス・アストレア・ヴェルグレイヴ。
ヴェルグレイヴ最強の騎士。
「……またルーメリアか」
吐き捨てるように呟く。
紫光の残滓が地面に残っていた。
見慣れた魔術式。
そして
見覚えのある癖。
「……ペルリニエ」
その名を呼ぶ声は低い。
怒りではない。
諦めにも似た感情だった。
「隊長!」
部下が駆け寄る。
「追撃命令が」
「やめろ」
「しかし……!」
「これ以上やれば、死人が増えるだけだ」
アルヴィスは剣を引き抜く。
雨が頬を伝った。
「……胸糞悪ぃ」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。
フィオラの夜
その夜。
フィオラの雨は、一層激しくなっていた。
「うぅ……寒……」
店じまいを終えたエリシアは、紙袋を抱えて路地裏を急ぐ。
近道のはずだった。
だが
その時。
視界の奥に、白い影が見えた。
「……え?」
石畳に倒れ込む、白銀の青年。
雨に濡れた白紫の外套。
腕から流れる赤。
そして。
ゆっくりと開く、紫水晶の瞳。
エリシアは息を呑んだ。
綺麗だった
あまりにも。
なのにその目は、
まるで壊れる寸前みたいに寂しかった。
「……君は」
静かな声だった。
「逃げないんだね」
雨が降っている。
まるで、
世界のどこかで何かが壊れ始めたみたいに。
その日、雨は止まなかった。




