8話 独り何を思う
階段を降りて行くごとに、冷たい空気が身体を刺す。
審判の塔の地下は厳重な扉で閉ざされた牢屋となっているのだ。
牢屋には天界の優しい光は一切届かず、暗く冷たい石の部屋には、小さなランプが一つぶら下がっているだけだ。それは、魔法のような力で光が灯されていて室内を照らすには十分の明るさだ。それはせめてもの慈悲のようにも感じる。
冷たい石の壁に、黒くてかたい鉄格子。
天界で罪を犯した神や天使が、判決を待つ間此処に入れられるのだ。
金髪の少年が一人牢屋の中で膝を抱えて座っている。
片方の漆黒の翼は罪の象徴。
今彼の他に利用者はいない。
見張りの者さえいない。
手を少し動かすたびに、手錠の鎖と地面が当たる音が響き、その音が余計孤独感を増していた。痛いほどの静寂が彼を包みこむ。此処に入れられてからどれほどの時間が経っただろうか。
「…。」
虚ろな目は自分の爪先をぼーっと眺めている。
フェルは無言の下で考えていた。
セルザスはお母さんが生きていると言った。
耳を疑った。
しかし目の前に母が現れたわけではなく、証拠があるわけでもない。
偽りなのかも知れない。
だが神議会に属するセルザスが言うのだ。
もしかしたら、本当なのかもしれない。
セルザスから母が生きていることを告げられた時、思わず嘘だと否定してしまった。認めてしまったら心が折れて、挫けてしまいそうだった。今まで平気だったことが、今度は怖くなってしまう気がした。
冷静になって考えてみると、少し怒りもあったのかもしれない。
何も言わずに突然自分の前からいなくなってしまった母に対して。
魔界にいるとまで言っていた。
嘘だ。これこそ嘘だ。
まさか、母が魔界にいるだなんて。
何かの間違いだ。
彼は願うように何度も頭の中で繰り返した。
しかし、嘘だと思う反面、その正反対の事も無意識に考えていた。
だが本当に魔界にいるのだとしたら。
堕天したのだとしたら。
堕天するのは悪いことをしたから。
じゃぁ、母が何を悪いことをしたというのか。
悪いのは自分であって決して母ではない。
では何故母が堕ちなければならなかったのか。
もし魔界で生きているのだとしたら…
しかし無力で脆弱な子供には、どうしたらいいのかわからなかった。
何を信じたらいいの?
「お母さん…」
フェルは頭が母の事でいっぱいなことにふと気付いた。
嘘かもしれないのに。
そっと顔を上げる。
でも、この想いは――。
「……い…よ…」
呟きは静寂に消えていく。
その単語を口にした途端、目から涙がこぼれた。
フェルが涙を見せることなど今まで一度もなかった。
母が死んだと聞かされ、泣いて泣いて泣きじゃくったあの日以来。
「逢いたいよぉ…」
そう漏らして膝に顔を埋めた。
泣いてしまったら挫けてしまうような気がするのに。
だのに。
湧きあがってきた水が行き場を失い溢れ出るかのように
今まで押し殺していた想いが溢れ出る。
フェルは声をひそめて泣き出した。
突然、鋼鉄の扉が音を立てて開かれた。
剣を携えた一人の兵が、一直線にフェルのもとへ早足に近寄ってくる。怖い顔をして、いや、顔は兜で見えないので怖い雰囲気でと言うべきか。フェルは吃驚して、座ったまま後ずさりながら、手で涙を拭った。背中に冷たい石の壁が当たり、はっとして後ろを一瞥し、不安げに眉をひそめる。
「ちょっと来てもらおうか。」
兵の影が不気味に揺れた。