決戦
王都ミリキュアの上空で、エミルは天使たちと対峙していた。
「……どいてください。私たちにはなすべき役目があるのです」
複数の天使を率いた女性――タニアが、静かな声で勧告ともいうべき言葉を投げかけてくる。
「こちらにもどけない理由がある。……それに、堕天使になった身では注意を聞くべき理由もないんだ」
「では我らが任務を妨害するというのですか。あなた一人で」
即座に斬り返してくるタニアに、エミルはただ黙する。今は確かに一人だ。だが、リティシアや彼女の仲間たちは、きっとアーシャの願いを聞き届けてくれるだろうと思ってもいる。それまでの時間稼ぎができれば、エミルの目的は完遂される。
「……タニア。魔に堕ち、道を違えたものとやたら言葉を交わすものではありません。彼に如何なる思惑があろうと、我らはただすべきことをすればいいだけのこと」
タニアに話しかけた天使はつまり、エミルを無視しろ、と言っている。それだけがエミルの懸念事項だ。天使たちが、魔族や堕天使と関わることを是としない以上、強引に『もうひとつの魔力反応』の方へ向かってしまう可能性があった。
「……そうすればこの者は追いすがってくるでしょう。どうしてここにいるかは知りませんが、この堕天使――エミルはアーシャの知己です。アーシャの行動原理を考えれば、彼が頼んだのでしょう……ここでこの者を放置すれば、前後を脅威にはさまれることになる。それは合理的ではありません」
タニアは、『感情』という言葉は用いなかった。ただ、自分に理解できぬ行動原理のひとつとして扱った。先ほどエミルが感情の発露を彼女に見たのは、勘違いであったのだろうか。
どちらにせよ――エミルとリティシアの関係を知らないのだから仕方がないが、多少思い違いがあるとはいえ――タニアはエミルが何をしようとしているか、正しく理解をしていた。彼女はエミルがここにいることを重く見ている。それはエミルにとっては僥倖だ。少なくとも、今こうして天使を足止めできているのだから。
「理解してくれて、助かるよ」
「……だからといって、あなたと仲間のように話すとは言っていません。今一度言います、どいてください」
タニアの声は相変わらず淡々としたものだ。そこからは彼女の思考を読み取ることはできない。だが、苦いものではあるのだろうという予想はついた。
「返事は同じだ。どけない」
エミルの返事に、タニアは考えを巡らせるように一瞬沈黙した。
「ならば、仕方がありません。もともと、我らにもたらされた情報が確かなものであれば、アーシャが我らの妨害をするであろうことは予測がつきました。それゆえ、今度の任務に際して、一時的な規則の緩和がなされたのです。もし邪魔が入るようであれば、命を奪わないことを条件に、武力にて対抗してよいと」
言葉とともに、タニアが短剣をその手に構える。後ろの天使たちもそれに従うのが見えた。もたらされた情報というのは、おおかたジークのことだろう。あのエリセという女性が天界に行ったときに、タニアがいろいろと手助けしたのだとは聞いていた。
それにしても、今から敵対しようという相手に、言葉で警告を促すのだから、タニアはどこまでも模範的な天使だ。魔界でのいざこざなら既に拳のひとつやふたつ飛び交っていてもおかしくないとエミルは思う。そうならないのは、偏に天使たちがアーシャやエミルに何ら怒りを感じていないからだろう。規則や役目を守るための障害だから、排除するというだけなのだ。エミルには、手加減する理由さえないというのに。
「それなら、受けて立つ」
エミルの方も、腰に差した短剣の柄に手をかける。天使は翼を以て魔法攻撃を相殺できるゆえに、動きを止めるには武器に頼る必要があった。魔法は目くらまし程度にしかならないだろう。
だというのに、天使たちはその手に光を灯している。できる限り傷つけないでおきたいという算段なのだろう。天使たちがエミルを害するには、怒りのような負の感情も、誰かを救いたいという想いも足りないのだ。彼らは最終的に、ジークと――アーシャを、法で裁ければそれで御役御免なのだから。そこに至る過程は、さして重要ではない。
しかしそれなら、時間を稼ぐには好都合だ。一斉に放たれた雷を、エミルは身を屈めて避けた。あえて翼で防ぐことはしない。翼は前に進むためだけに動かし――タニアへと距離を詰める。短剣どうしがぶつかるまで、大した時間はかからなかった。
「何を――」
「……模擬戦しかしないなら、そうもなる」
何を考えているのか、とタニアは問おうとしたのだろう。エミルの行動は、切り結ぶほどタニアと密着すれば、天使たちは魔法による追撃ができないだろうと踏んでのものだったが――彼女の目には、離れるでもなく、攻撃を加えるでもなく、剣どうしを拮抗させているエミルがどうやら不審なものに映ったようだ。
「甘いとでも言うつもりですか」
「それなら、人のことは言えないから言うつもりもない。攻撃すればよかったのは俺も同じなんだから」
案の定、他の天使たちは追撃を迷っていた。剣による追撃も、エミルが上空に逃げればタニアを危険に巻き込む。天使としては適当な判断であった。魔法戦なら、あるいはエミルが人間であればともかく、同種の女性の力では、エミルの剣を弾きあげるにも労力がいるだろう。充分に時間は稼げる手はずだ。
「ならなぜです」
タニアの吐き出す言葉は純粋な疑問なのだろう。しかし、エミルではタニアの納得する答えは用意できそうにない。時間稼ぎと正直に言うわけにもいかないのだから。
「……親戚の誼だよ」
そこで何気なく発した言葉。それが、よくなかった。
「堕ちたあなたがブライトクロイツ家のことを気にするというのですか」
エミルの剣を押し返すタニアの腕に、明らかに力がこもった。
「堕天使に手加減をされるほど、私は誇りを捨てていません」
変わらず静かな声だが、その言葉や行動の意味を、エミルなら理解できた。これは『怒り』なのだと。
タニアの手に力がこもる。このままでは剣が弾かれ体勢を崩される。そうなる前に、エミルは自ら剣を弾いて離れた。
「捨てた家の名を名乗るなど、恥を知りなさい」
タニアの手に再び光が点る。
「……概念としてしか恥を知らない君がそれを言うのか」
言葉を紡ぎつつも、エミルは考えを改めつつあった。タニアは、ただ模範的な天使というだけではないのではないか。というよりも――彼女もまた変わったのかもしれないと。
剣を弾く際にエミルは後ろへと飛んでいた。魔法を避けることは叶わない。今度ばかりは翼で受け止めるしかないだろう。しかしタニアの仲間もまた、魔法を打とうと構えている。先ほどの言葉は完全に悪手となったといえた。
こうなれば、防衛だけに徹するしかないだろう。そう覚悟を決めたときだった。目の前に見慣れた紅色が割り込む。エミルは一気に胆が冷えるのを感じた。
アーシャは一本の細い路地へと降り立った。町の中心からは少し離れたところにある、建物に囲まれた道である。傾いた日の光は、建物に阻まれてほとんど入らない。薄暗く静かな路地に、アーシャの靴音だけが響いた。
この角を曲がったところに、いる。確かに魔力を感じるのだ。それはつまり、向こうにもアーシャの存在を知られているのと同義。ここに隠れている意味は、ない。
それを分かってなお、アーシャは数秒の間動くことができなかった。知りたくない。このまま逃げてしまいたい。そういった気持ちがないと言えば嘘だ。しかし――それと同時に、真相を知り、兄を助けたい気持ちも、仲間や街の人を裏切りたくない気持ちもある。だからこそ、アーシャは止まった足を再び動かすことができた。
魔力の反応はある。それでも、魔物が姿を現すことはない。心配していた人間界への追い打ちはないということになるが――いったいそれはなぜなのか。
「……お前が来ると思っていた」
思考に沈むアーシャの耳に、馴染みのある声が響いた。できれば聞きたくないと思っていた声。今にも叫びたくなる衝動に、顔が歪むのを感じた。
「俺もここにいると思ってたよ。……兄さん」
それでも顔をあげ、目の前の人物をまっすぐ見据える。感情を見せない紫の瞳が、ただアーシャに視線を返していた。




