交差する思惑
水晶を服の中にしまうエミルを見ながら、アーシャは考えを巡らせていた。
日の沈む方向から感じる魔力のほうが、微かに弱い気がする。
「……エミル、」
小さく呼びかけると、友人がアーシャを振り返った。
「俺、あっちに行ってみるよ」
夕日の方を指さすと、エミルは怪訝そうにした。
「……確信があるってことか?」
そっちがジークである確信はあるのか、ということだ。
正直に言えば、アーシャにもわからない。いくら兄とはいえ、もうずっと会っていなかったジークの行動を、自分が把握しきれるとは思えなかった。
それでも、長年の勘というものがある。ジークは、心の均衡を失い過激な性格となった今でも、きっと天界を愛していた。弟とは違って。
「……なんとなく、思うんだ。もし本当にジークが起こしたことなら、他の天使は巻き込まないんじゃないかって」
アーシャから見れば、これは多様性のない天界という世界が生んだ歪みが、因果となって戻っていっただけのできごとなのかもしれない。それでも、きっとジークにはそんな意識はないのだろう。彼の中ではどこまでも天界がいちばんだ。
「だから、あっちに行ってみようと思う」
「それなら、せめて姫様がたの到着を待ってから……」
エミルの言葉も、よくわかる。先に待つのがジークでも、天使たちでも、アーシャに危機が訪れない保証はない。天使たちに見つかってそのまま連れ戻されるという可能性もあった。
それでも、アーシャにはアーシャの思惑というものがある。
「……自己犠牲に走るつもりはないよ。でも、兄弟だけで話せる可能性があるなら、それに賭けてみたい。ジークが俺の言葉を聞いてくれるんじゃないかって希望を、まだ捨てたくない」
アーシャが探すのは、ジークを救える道だ。裁くのならばそれこそ天界にもできる。ジーク本人が今の状態を正しいと信じているとすれば、助けられる道などないのかもしれないけれど。
「……刃傷沙汰に及んでもなおそう思うんだから、アーシャも大概だよ」
ため息まじりに吐き出された台詞。それもそうだと、アーシャ自身も苦笑せざるを得なかった。
「でも、それがアーシャの希望なら、却下するだけの理由もないのも確かだ……今のジークが本当にアーシャの言う通りなら、堕天使や姫様を連れて行ったら言葉を聞く余地はなくなるだろうし」
「……うん」
アーシャもそれを危惧していた。ジークを見捨てたくない気持ちと同じくらい、リティシアとエミルを傷つけられることを恐れる気持ちがある。シリルたちもいるのだから、彼らを守るだけならどうにでもなる。しかし、それではアーシャの望みはかなわない。
「自分が感情的すぎるのは、理解してるつもりだから。リティシアや君が傷つけられたら制御できる自信がない……駄目そうならすぐに戻るよ。だから、一度だけ挑戦させて」
ジークに伝えたいことが山ほどある。それはもしかしたら、アーシャの罪悪感からくる自己満足なのかもしれないけれど。
「……わかった」
ややあって、エミルが頷いた。
「反対側の反応が天使たちなんだとしたら、ジークに用がある可能性が大きいだろうし……アーシャの気が済むまで、引き留める。姫様のことも任せてくれていい」
この友人は、昔から面倒見がよかった。それを思い出して、アーシャの口角が自然と上がる。
「ごめんね、いつも世話焼かせて」
「何をいまさら」
エミルも笑顔を返してくれる。それに言い表せないなつかしさと寂寞感が心の奥から湧き出てきて、アーシャは拳を握りしめた。昔の優しいジークと、エミルと一緒にいたころ。その頃は天界にいることにも耐えていられた。つい思い出に浸りそうになって、今はそれどころではないと思い直す。
「……じゃあ、行ってくるよ」
アーシャが今見据えなければならないのは、今のジークだ。
エミルが頷くのを見届け、アーシャは羽ばたきをひとつして夕日へと向かう。行く先にいるのが兄であってほしい。それと同じくらい、兄であってほしくない。今でもアーシャは一縷の望みに賭けている。しかし、それと同じくらい、心の冷静な部分が訴えてくるのだ。ジークはきっとここにいるのだと。
「……痛いな」
羽ばたく翼が軋むような感覚。それが怪我のせいによるものか、前に進みたくないという気持ちからくるものなのか、アーシャにはわからなかった。
「……アーシャは変わらないな」
友人の姿を見送り、近くの屋根に降り立ったエミルは小さくひとりごちる。アーシャは自分のことを感情的と評したが、エミルの目から見た彼は、それでもまだ割り切るのがうまい方だ。普段エミルが関わっているのが、リティシアをはじめとした魔族たちだからかもしれないが――エミルにとっては、アーシャが今の不安や恐怖について言及しないのが、心配でしかたがなかった。
(……姫様がたには言えているんだろうか)
今となっては、リティシアを含め、アーシャにもエミルよりも近いところにいる仲間たちがいる。リティシアが人間界に出てからまだ日は浅いが、エミルの所感では、リティシアは充分にアーシャの性格を理解しているようだった。「考えすぎるな」という助言をアーシャに残したように。それが救いだ。
反対に、リティシアは少し変わったようだ。エミルの知るリティシアは、筋の通らないことと回り道を嫌う。今回、ジークがアーシャの兄でなければ、無鉄砲に飛び出していてもおかしくなかったのではないだろうか。仲間とともに待機していてくれたのは、エミルからすれば奇跡に近い。
「人のことは言えないけど」
エミルは変わった、と、アーシャにも言われたのだから。いつか、アーシャもリティシアに影響されて、いい方向に変わってほしい。だが、その点に関しては、エミルには祈ることしかできない。今できることはただひとつ。
「……なぜあなたがここにいるのです」
淡々と言葉を紡ぐ声は、聞きなじみのあるものだった。後ろから聞こえた声に、エミルは振り返る。
複数の天使を引き連れ、先頭を飛んでいる頭巾をかぶった女性。その頭巾の下から、切れ長の灰色の目が覗いていた。
「こっちにもこっちの都合があったんだよ。タニア」
そう答えると、珍しくタニアの眉間に皺が寄った。ごくごく小さな動作であったが、それはエミルが天界にいる間、ついぞ見たことがないものであった。
変わらないものなんて、ないのかもしれない。そう思えば、アーシャや――ジークの未来にも、希望が残るというものだ。
「悪いけど、ここを通るのは少し待ってもらう」
アーシャの頼みを聞き届けること。それが今のエミルにできる、唯一のことだった。




