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紅玉の姫君  作者: 神奈保 時雨
第十章
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誰かを想うということ


「――アーシャ」

 階段を上ろうとする彼の背中を、リティシアは小さく呼び止めた。

 アーシャはそれにリティシアの方を振り返り、足を止める。彼の表情は既にいつも通りの穏やかなものに戻っている。

「どうかした?」

 それがむしろ痛々しくて、リティシアは黙り込んでしまう。何を言っていいのか分からない。不用意な言葉は、むしろ彼を苦しめてしまうような気がした。

 言葉を探してあれこれと思いを巡らせているうち、アーシャが踵を返したのが目に入った。

「大丈夫だよ」

彼はリティシアの目の前まで戻ってくると、そう言って微笑んだ。その言葉は彼の心情についてのものなのか、リティシアに向けたものなのか。リティシアには、よく分からなかった。

 そのままもう一度階段を上がろうとするアーシャの手を、リティシアは反射的に掴む。驚いたように目線を送ってくるアーシャを尻目にそのまま階段を登ると、彼もそれについてきた。

「リティシア?」

「……ちょっと一緒にいたいだけよ。悪いかしら」

 嘘ではなかった。今は何となく、彼を1人にはしたくない。

「すぐ、出かけてしまうのでしょう」


 ――力を貸してほしい。

 先ほどのアーシャのあの台詞。それとほぼ同時、リティシアを含む仲間たちは頷いていた。

 ジークが今回の事件を起こしたというのなら、そしてアーシャの言うとおり、「天使が唯一の種であれば」という思いに起因するのなら、彼はもう一度現れるだろう。あれほどの痛手を受けてなお、人間の世界は正常に機能しているのだから。


「……うん。話し合った通り、俺とエミルが上空から見張る。もしジークや――彼じゃなくても、不審な動きをしている人がいれば」

「エミルがあたしに知らせる。大丈夫よ、分かってる」

 一度はエリセに貸した、連絡を取るための水晶。それは今、再びリティシアの首にかけられていた。もう片方は、無論エミルの手にある。

 アーシャとエミルは、空を巡回して魔法陣や怪しい人影がないかを確認する。この広い王都のことだ、二人でも不眠不休で見回ることになるだろう。あまりに不確実的な手段であり、今までにとられたことはない。そもそも、アーシャ一人では目が足りないのだ。今この場にエミルがいるからこそ、そしてある程度――アーシャの手前リティシアはこの言葉を使いたくはなかったが――犯人の目星がついているからこそ取れる手段だ。

 つまり、一種の賭けだ。もしジークが現れなかったら。ジーク以外の誰かが犯人であったなら。天使たちの労力は無に帰してしまうかもしれない。


 それでも、人間界がこれ以上損害を被る前に、ジークが罪を重ねる前に、今度こそ食い止めたい。その願いは全員一致していた。


「……アーシャ、翼は」

「大丈夫だよ」

 彼の後ろに下がって歩きながら、リティシアはぽつりと声を漏らした。返ってきた言葉は気丈であったけれど、アーシャの翼が治ってから初めての飛行だ。どうにも心配が拭えない。

「俺は大丈夫。上手くやれるよ、エミルだっているんだから」

 自室に入り上着を羽織るアーシャを、リティシアは扉の外から見つめる。

 いつも通りの表情、いつも通りの声。けれど、アーシャの心の内がいつも通りのわけがないのだ。血のつながった兄を疑わなければいけないこの状況で。

 「ジークから逃げた」と言った彼。あの言葉はまるで自分を責めているかのようだった。魔族であるリティシアが、魔物の行いに罪悪感を覚えた以上に――今のアーシャは、つらい思いをしているのではないだろうか。

 リティシアはいつの間にか、アーシャに向かって足を踏み出していた。彼に向かって腕を伸ばし、その背中に顔を押しつけるようにしてしがみつく。

「……リティシア?」

 戸惑ったような声に、リティシアは腕の力を強めた。

「……身内や同胞が事件に関わっているんじゃないかって疑わなければならない気持ちは、少しぐらい分かるつもりよ」

 言葉が零れて、一瞬の後に静寂が広がった。

「人間に対しての罪悪感だって、少しは分かるわ。でも、アーシャは――今のあたしの気持ちだって知っているはずよ」

 アーシャからの返事はなかったが、それでもリティシアは言葉を続ける。

 リティシアは何度もアーシャに救われた。アーシャが言ってくれた言葉が、今でもリティシアの心には灯っている。

「アーシャは、アーシャなのよ。貴方以外の存在の罪は背負えないの。それが血を分けた兄弟のものでも――アーシャはアーシャで、ジークはジークだから」

 仲間たちがリティシアを責めなかったように、アーシャのことだって責めるわけはないのだ。それなのにアーシャは自分を責めている。それがどうしても悲しかった。

「だから、そんな顔しないでちょうだい」

「……どんな顔してるっていうのさ。そこから見えるの?」

 ようやく返ってきた声は、少しだけ戸惑ったような響きを含んでいた。確かにリティシアからアーシャの顔を見ることはできない。だが、見えなくても分かっていた。

「きっと、いつも通りに笑ってる」

 アーシャは、いつだって穏やかな笑みを浮かべてくれていた。リティシアの正体を知ったときも。リティシアが怪我をしたときや、自分の翼が傷ついたときでさえ。本当は言いたいこともあったのだろうに。翼の怪我だって、痛くて仕方がなかっただろうに。

つい先ほどもいつも通りに笑っていた。ジークについての話など、すべて夢だったかのように。

 彼が取り乱すのは、怒るのは、他の人のためにだけ。自分のために激しい感情を露にするところなど、リティシアは未だ見たことがない。

「笑いたくないときは笑わなくていいの。泣きたければ泣いていいの。怒りたければ、怒ったっていい。誰も貴方を責めたりしないわ。思っていることを言ってほしいのよ。あたしだって貴方が心配なの。心配されてばかりは、いやなの」

 アーシャだって、充分すぎるくらいに感情を隠そうとする。天使たちの生き方を嫌ってもなお。

 懸命に言葉を紡ぐうち、ふと彼の身体がリティシアから離れた。反射的に彼を見上げた途端、視界が金色で埋まる。

 彼の柔らかい金色の髪が、頬にあたってこそばゆい。大きな手が、しっかりとリティシアを抱きしめてくれていた。

「だからって、リティシアが泣いてくれなくってもいいんだよ」

 もう片方の手がリティシアの髪を梳いている。まるで、リティシアが初めてアーシャに不安を打ち明けた夜のように。

「……泣きたくなったんだもの」

 震える声を絞り出し、アーシャの背中に両手を回す。

 リティシアは悲しかったのだ。何が起こっても、つらいという一言さえ吐き出さずに立っている彼のことが。リティシアが涙を零した途端に優しく抱きしめてくれる、そんなアーシャの柔らかな心がどれだけ傷つけられようと――アーシャがまったく表面に出さなかったなら、リティシアはそれを知ることすらできない。それがもどかしかった。

「俺は――大丈夫」

 リティシアの背中を支えている手に、わずかながらに力がこもったのが分かった。

「大丈夫じゃ、ないかもしれないけど……大丈夫。リティシアがいてくれる。皆もいてくれる」

 アーシャの手が、声が、ほんの少しだけ震えている。彼の顔はリティシアの肩に隠れて見えなかったけれど。

「つらいのは――ジークが誰かを傷つけるかもしれないこと。もしまた兄と君が会えば、兄がまた、ひどいことを言うかもしれないこと。兄の罪は俺には背負えない。それは分かってるよ。でも、兄弟だからできることも、きっとあるって思いたい。血を分けた兄弟としての責任を果たしたい」

 とつとつと、アーシャの心情が零れていく。リティシアは一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。溢れた言葉をすべて受け止めようと、彼の顔に耳を近づけて。

「……これ以上彼が間違わないように、止めたいんだ。事件に関わっているいないを抜きにしても――ジークがリティシアに見せたような攻撃性は間違っているんだって。それだけは、伝えなきゃ」

 結局、彼は人のためにしか怒れないのだろうか。ジークのために、そしてリティシアのために動こうとしているのか。そんな疑問が口から出そうになったとき、アーシャの手が優しくリティシアの頬を撫でた。

「……家族が自分の大切な人を傷つけるところなんて、俺は見たくないんだ」

 彼はそのまま顔を上げ、言葉を落として微笑んだ。リティシアは思わず彼の顔を見つめる。まるで、自分の心情が見透かされていたような言葉。それでも、安心したのは確かだった。アーシャはアーシャのために動こうとしている。彼は自分のために行動することができる。リティシアの心配は無用のものだったのかもしれない。

「あたしは大丈夫よ。そんなに簡単に傷ついたりしないわ」

 アーシャの言った通りであるのなら、彼の不安を少しでも取り払ってあげたい。そんな思いで、リティシアはそっと彼の背中をさすった。

「……うん。リティシアは強いね……」

 小さな笑い声と共に、リティシアの背中から彼の手が離れ――ふと、リティシアの首に何か冷たいものが触れた。

 反射的に首へと伸びたリティシアの手に、細い鎖が触れた。それを辿ると、薄く平べったい金属の(プレート)が提げてあるのが分かる。

「……これ、アーシャのものじゃないの」

 それは、彼が普段つけているものによく似ていた。

「うん。リティシアが預かっていて。お守り」

 彼の言葉で、その首飾りに魔力が込められているのに気づく。普段は感じ取れなかったものだ。アーシャが何かの魔法を込めたのだろう。口ではリティシアを強いと言っていても、やはり心配なのだろうか。魔樹の一件で怪我をした身では、その心配を突っぱねることもできないのだが。

「ありがとう……」

 それに、心配されていることが嬉しいのは確かだ。アーシャには、アーシャのために行動してほしい。しかしそれと同じくらい、アーシャがリティシアのことを考えてくれるのは嬉しかった。勝手な感情だと分かっていても。

「ううん。……じゃあ、そろそろ行くね」

 言葉と共に、アーシャの手はリティシアから離れてしまう。これ以上話している時間は、確かになさそうだった。

「気をつけて」

 リティシアの言葉にアーシャは頷き――一瞬、リティシアの耳に口を寄せる。

「あ、でももうひとつだけ――、」

 そのまま小さく呟かれた声は、聞き覚えのない響きを持っていた。

「え、」

「リティシアには知っていてほしいから。――俺の名前」

 戸惑っているうちにアーシャは離れ、「行ってきます」と今度こそ部屋を出て行った。リティシアはそれを追いかけることもできず、ただ茫然とそれを見送る。


 天使は、他人に真名を名乗らない。

 ――天使が真名を知らせるのは、基本的に家族だけなのです。どれほど信頼している友人でも、真名を名乗ることはほとんどありません。

 いつだったか家臣(エミル)がそう語っていたことが、今になって鮮明に思い出される。

それほどまでに信頼されているのかと、無意識に頬が熱くなる。アーシャは天使の常識に捕らわれているわけではないから、考えすぎかもしれないけれど。

(……それにしたって、いきなりすぎるのよ)

 何も、こんなときに言わなくてもいいものを。それとも、今でなければいけない理由があったのか。そんなことを考えそうになるが――今は素直に喜んでおこうと、リティシアは思考を封印する。

 理由なんて、後で聞けばいいだろう。そう思い直し、リティシアは遅れて天使の後を追った。


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