報せと予感
エリセは編まれた髪を後ろへ流し、一から話を始めた。自分が天界に行くこととなったところから。リティシアに呼ばれてエミルが来たこと。天界に入り込めそうな自分が、薬を取りに行くことになったこと。
そこから話を始めることにしたのは、きっとアーシャに事の流れを掴んでもらうためだったのだろう、とリティシアは思う。彼はずっと眠っていたのだから。なぜエリセが天界に行ったのかは知らないのだ。
もちろん、エリセが天界に入り込んでからのことは、リティシアや他の仲間たちも知らないのだが。
「それで……天界に入ってすぐ、タニアさんって人に会ったの」
「タニア……?」
エリセの言葉に、リティシアの左隣から声が上がる。リティシアがそちらに目線を向けると、アーシャが目を瞬かせているのが見えた。
「ブライトクロイツ家の……タニアですか?」
姿勢よく座って黙っていたエミルからも、声が上がる。リティシアから見た彼はいつも通りの表情をしていたが、その声は僅かに怪訝そうな響きを持っていた。
「あ……はい。そのタニアさんです。アーシャのお父さんのところまで、連れていってくれて」
両手の指を机の下で組み合わせながら、エリセが頷く。
「彼女が、あなたに協力を?」
それに、エミルの首が少し傾いた。エリセが頷いてみせると、「そうですか」と言ったきり黙ってしまう。まるで、理解できないといった面持ちで。
他に質問がないか確認するように間を開け、エリセは再び口を開いた。
「――彼女が導いてくれたおかげで、それ以降は特に問題もなくて」
それからは、一度エリセが軽く口にしていた話だった。薬を本当にアーシャに使うのか、そうだとしたらなぜアーシャが怪我をしたのか。そう聞かれて、ジークとアーシャの間に起こったことを話したこと。その流れでリティシアの正体を打ち明けざるを得なかったこと。
「……リティシアには申し訳なかったんだけど、」
ちらりと目線を合わせてくるエリセに、リティシアは小さく笑んでみせる。
「仕方なかったんでしょう? ……それに、本人がこの通りだもの。あたしばっかり気にしてたってどうしようもないわ」
言葉と共にアーシャを一瞥すると、彼はリティシアの予想通り柔らかな笑みを浮かべていた。その笑みに、リティシアは肩を竦める。
実際のところ、もう気にしても仕方ないのだ。気にしないと決めた。後戻りはできないし、するつもりもない。
「大丈夫よ。続けてちょうだい」
リティシアが促すと、エリセは言葉を選ぶように目を伏せて黙り込んだ。
「エリセ?」
少しして、アリスが怪訝そうに首をかしげる。それにエリセはようやく顔を上げ、仲間たちを見渡した。
「……帰りに、魔法陣までタニアさんが送ってくれた、んだけど。そのときに、色々聞いたの。アーシャのお兄さんのこと」
ぽつりと落とされた言葉。
リティシアの視線の左端で、何かが動いた。視線を向けた先にあるものは、アーシャの手だ。彼は両手の指を固く握り合わせ、エリセの言葉を待っている。リティシアが思わず自分の手を彼の手に重ねると、間もなく彼の手指はほどけた。
「……覚えてる? あのとき……ジークさんは知ってた。人間界に魔物が出ていること」
エリセが仲間を見渡しながら、遠慮がちに尋ねる。
「……覚えてるよ」
それに答えたのは、他でもないアーシャだった。彼の手が自分の手に重なる感触を覚えながら、リティシアは彼の顔を見上げる。珍しく笑顔の消えた顔からは、彼の考えていることを読み取ることができない。
「――タニアさんがね、」
アーシャの言葉を受けて言葉を紡ぎ始めたエリセだったが、それは途中で止まってしまった。
「……タニアが?」
それにアーシャが促すように復唱すると、エリセは僅かに目を泳がせる。
「エリセ、」
リティシアが空いている手を彼女に伸ばそうとしたとき、彼女がくっと顎を引いたのが分かった。そのまま僅かに伸ばされた彼女の背中。それに触る前に、リティシアは無意識に手を止めてしまう。
「……タニアさんが、言ってたの」
彼女の眼差しには確かな力がこもっていた。何かを覚悟したときのような、何かに立ち向かうときのようなその眼に、リティシアは彼女に触れることをためらってしまう。そうすることで、彼女の気持ちに水を差してしまうような気がしたのだ。
「あの時点……彼がここに訪れた時点では、人間界に魔物が出ていることを――天使たちは知らなかったはずだって」
リティシアの手を握るアーシャの手に、僅かに力がこもる。
「……それは、つまり」
「分からないよ、まだ分からないの。どこか違うところで、たとえば人間界に降りたそのとき……知ったのかもしれない」
シリルの呟きに、エリセが首を振るのが見えた。
「……アーシャ、」
思わず声をかけたリティシアだったが、彼から返事は返って来ない。助けを求めるようにエミルを見ても、エミルもまた、戸惑ったようにリティシアを見返してくるのみだった。
「……つまりどういうことー?」
「知らないはずのことを知ってる理由は何だろうってことだよ、アリス」
双子はできるだけ小さい声で言葉を交わしているようだったが、周りが静かなことに気づいたのだろうか、それも間もなく止んでしまった。
「……でも、わからないけど、言わないのは……違うと思ったから。みんなが知ったうえで、みんなで考えないとって」
遠慮がちなエリセの声。リティシアはそれを聞きながら、再びアーシャを垣間見た。彼の顔からは未だ何も読み取れない。
「――ずっと」
リティシアが再びアーシャに呼びかけようとしたとき、彼の口から確かに声が漏れた。
「……アーシャ?」
「ずっとどこかで、疑ってた。兄のこと。魔法陣の近くで天使の羽根が見つかったときから……もしかして、って。でも確証はなくって――」
彼の眼差しは机に縫い止められたまま動かない。リティシアも、アーシャの横顔から目を逸らすことができなかった。仲間たちも一言も発することなく、彼の言葉を待っているようだった。
「……ジークが、ここに来たとき。ここが『魔樹に襲われた』って、知ってたみたいだった。でも、何で断言できたんだろうって。天使は魔族と接触できない、つまり魔族を見る機会だって本当はないはずなのに――なんで、あんな枯れ枝ひとつでそれが魔樹だってわかったんだろう、って。だって、天界にも魔力を持った草木はあるんだよ。俺を治した薬草みたいにね。魔力があるかないかだけじゃ、それがどこのものかなんて――断定できない」
とつとつと零れていく言葉と共に、アーシャがゆっくりと顔を上げる。目線は少し下げたまま、眉間に皺を寄せて。
「――こんなことなら、早めに言うべきだった」
その表情が表すのは、悔恨なのだろう。
かけるべき言葉が見つからず、リティシアはただ彼の手を握り続けることしかできなかった。自らの肉親を疑わなければいけない気持ちを理解することは、リティシアにはきっとできない。魔族や父が疑われていると知ったときも、自分の種族と肉親を信じられるだけの基盤が彼女にはあった。
アーシャには、それがないのだ。彼がリティシアにしてくれた話から判断するに――天界にも、天界に従う兄にも、むしろ不信感の方が強いと言えるだろう。
まだジークだと決まったわけではない、と口にするのは簡単だ。しかし、その一言をリティシアはどうしても言うことができなかった。実際、アーシャにとっては気休めにもならないだろう。
「……アーシャ」
不意に、エミルの声が聞こえた。仲間たちの視線が、今度は彼へと集まる。
「――俺の知ってるジークと……アーシャや他の方々が語る今のジークは、別の人物かと思うほど違ってるみたい、だけど。いったいいつからそうなったんだ?」
その言葉で、リティシアは思い出す。エミルは確かに言っていたのだ。「ジークは優しい人だった」と。
リティシアには今でも信じられないが――アーシャの優しい兄は、かつては存在したのだろう。エミルが尋ねた瞬間、アーシャの表情が確かに歪んだのが見えたのだから。




