旧友
「……、」
ふと気づくと、辺りは暗かった。リティシアは顔を上げる。再び眠ったアーシャを見守っているうちに、椅子に座ったままうたた寝をしていたらしい。首を伸ばすと、鈍い痛みが走った。固まった背中を伸ばそうとして、自分の手が何かに掴まれているのに気づく。確認するまでもない。アーシャの手だ。
暗闇の中でも、リティシアの目にはアーシャの寝顔がしっかりと映っている。寝息はごくごく穏やかで、リティシアは胸を撫で下ろした。彼が怪我をして意識を失っていたときの苦しそうな寝顔を見ていたから、少し心配だったのだ。
リティシアは窓から月の高さを確認しようと、机の向こうの窓に顔を向ける。と、僅かながらアーシャの手に力がこもった。リティシアがそれに目線を戻したと同時、ゆっくりと彼の瞼が開く。
「……リティシア?」
「あ、起こしたかしら……ごめんなさい」
未だ眠そうな彼の声。リティシアが謝ると、アーシャは小さく首を振った。
「大丈夫。大分楽になったから……それより」
彼はリティシアの手ごと、自分の手を持ち上げてみせる。
「ここにいてくれて、ありがとう」
「……目が覚めるまで手を握っててと言われたからそうしただけよ」
「うん、それが嬉しかったから」
お礼を言われたのが気恥ずかしくて、リティシアは顔をそらして澄ましてみせる。しかし、アーシャはそれに楽しげに笑うのみだった。リティシアの方は何だか照れくさくてたまらないというのに、アーシャの態度はいつも通りだ。さっきのできごとは夢かと思うほど。
と、リティシアの頭にアーシャの手が載せられた。そのまま子供をあやすように髪を撫でつけられる。
「ちょ、ちょっと、何よ」
「え、何となく……かな」
リティシアは考えを改める。彼も充分、変だった。思わず吹き出すと、アーシャも少し気まずそうに笑ってみせる。
「食欲はある? あるなら、何かもらってきましょうか」
いくら天使の生命力が強いとは言っても、身体が弱っているときは養生した方がいい。それに心配性な仲間たちのことだ。きっと既に、身体に優しい食事が用意されているのではないかと、リティシアは半ば確信していた。
「うん……お願いしようかな」
「大人しくしていてね」
「分かってるよ、大丈夫」
苦笑するアーシャの手を離し、リティシアは立ち上がる。アーシャの手もリティシアの手を離れた。
リティシアが部屋から出て、ドアが閉まると同時に、机の上にあった燭台に火が灯った。アーシャは反射的にそちらへと目を向ける。彼女が魔法で灯りを点けていったのだろう。柔らかい炎が、蝋燭の上でゆらゆらと揺れている。
アーシャは身体を起こし、その火を見つめる。
「……言っちゃった」
ほとんど無意識に、小さく声を零した。勿論、さっき打ち明けた気持ちに嘘偽りがあるわけではない。しかし、打ち明ける機会として、今が適切であったのかは彼にも分からなかった。
「……」
アーシャは自分の胸の辺りを手で押さえる。彼の心を悩ませているものは他にある。もしかしたらリティシアへの気持ちより、ずっと心の奥でくすぶっているもの。そしてそれは、彼女への気持ちのようにアーシャを救ってくれるわけではない。
「どうしよ……」
どちらかといえば巣食われている。確実に、頭の冷静な部分を侵食している。こんなに自分が定まらない状況で、彼女を縛りつけるような真似をしてよかったのだろうか。
膝に頬杖をつき、両手に顔を埋めた。と、短い音が部屋に響く。何かと何かがぶつかる音が、2回。
「……はい、」
音のした方向――扉の方に顔を向け、アーシャは小さく反応を返す。
「アーシャ」
声の主は、先ほどまで一緒にいた少女ではなかった。
「エミル?」
昔馴染みの名を呼ぶと、入ってもいいかと尋ねられる。もちろん、と返すと、静かに扉が開いた。束ねた長い髪を揺らして、見慣れた――しかししばらく見ていなかった友人が姿を現す。手には盆を持っていて、その上に深皿が載っていた。
「アーシャが起きたから食事を運ぶようにと……姫様が」
どうやらリティシアに頼まれたらしい。気を遣ってくれたのだろうか。思えば先ほども、「アーシャとまだ話せていないのだから」とエミルのことを引き止めていた。
「……素直じゃないなぁ」
少し遠回りな優しさに、思わずそんな言葉が漏れる。同時、吹き出すような声が聞こえた。吐息が漏れたかのような小さな声だったが、そのまま笑い声が続いたことで、聞き間違いではないと分かる。
「確かに、あの方は少し……いや、かなり素直じゃない。けど分かりやすいから、問題ないだろ?」
エミルは歩を進め、机の上、燭台の近くに盆を置いた。それから、彼は寝台の端に腰掛ける。
深皿にはスープがよそってあった。大きく具材をたくさん入れて煮込まれたそれは、エリセがよく作るものだ。ただし、今日はいつもより念入りに煮込まれているらしい。これもまた、アーシャを気遣ってのことなのだろう。
「確かに、リティシアは分かりやすいかも」
他の仲間たちも、充分に分かりやすい。エリセの気遣いが料理にこれほど表れているように。けれど、リティシアの分かりやすさはまた別種だ。彼女の場合は隠そうとしている。ほとんど隠れていないのだが。
「昔から、ああなの?」
「まあ……そうかも。昔から」
「そっか」
どこか言いにくそうなエミルを見て、笑い声が漏れた。不思議なものだとアーシャは思う。アーシャが会えないでいた間のエミルのことは、どうやらリティシアが知っているらしい。リティシアとエミルが知り合いだという可能性に、考えが及ばなかったわけではない。しかし、今になってようやくそれを実感していた。
「エミルは、変わったよね。いい方向に」
「いい方向……?」
「天使としては悪い方向かもしれないけど」
肩を竦めてみせると、エミルは困ったような笑みを返す。
「ほら、よく笑うようになった」
エミルもどちらかというと、天使の中でいえば感情が豊かな部類だった。それでも、彼はアーシャよりはまだ天界に馴染んでいた。
「……今のエミルを見てると、やっぱり、無理してたんだなって思ってさ……」
堕天使となることが罰だなどとは、アーシャには思えなかった。目の前の友人を見れば、なおさら。
「……昔のことだから」
エミルはそれだけ言うと、温かいうちに食事を摂るようにとアーシャに勧める。それに頷くと、アーシャの膝の上に盆が置かれた。深皿に近い部分がじんわりと温かい。
「――エミルはさ、」
匙を手に取りつつも、ふと言葉が口をついた。
「天界を追われたこと、後悔してる?」
聞きたくても聞けないままでいたこと。久しぶりに旧友を見た瞬間から、それが聞きたくてたまらなかった。
「……いや、」
エミルは少しの間アーシャを見つめてから、首を振る。
「自分で選んだことだから、後悔してない。――アーシャを天界に残したこととか、自分が堕天して家族が何を思ったかとか、そういう心残りがなかったとは言わないけど――悔やんだことはない」
「……そっか」
それだけ聞けば、充分だった。
アーシャは匙で食事を掬い、口に運ぶ。優しい味が口に広がった。それきり、アーシャが食事を終えるまで、天使たちはお互い何も言わなかった。
「エミル、」
空になった皿を運ぼうと友人が立ち上がったとき、アーシャは再び口を開いた。エミルはアーシャに目を留め、聞く体制をつくってくれる。
「明日もこっちにいる?」
「そのつもりではいるけど……」
何故、と問われ、アーシャは一旦言葉に詰まった。しかし、ずっと黙ってもいられない。
「……皆に話さなきゃいけないことがある……と思う。急ぎなんだ。エミルにもいてもらえたら助かると思う。急ぎなんだけど、正直……話しづらい、からさ」
「話しがあるとはさっきも言っていたけど、話しづらいって、それは何で……」
「兄さんのことだから」
いまいち呑み込めていないのだろうエミルに、口早に告げる。
「……分かった」
内容は今でも掴めていないだろう。それでも、エミルは何も聞かずに頷いてくれる。それがありがたかった。今になって初めて、「話すのが怖い」と泣いていたリティシアの気持ちをひしひしと実感する。
「ありがとう、エミル」
「別に、ここにいるくらい手間じゃない」
笑いかけると、友人は小さく首を振った。そのまま扉を開けたと思うと、再びアーシャに顔を向ける。
「そういえば……姫様が伝えろと。今日は何も考えないでとにかく休め、って」
「心配性……」
その言葉に思わず笑うと、「実際思い詰めてたくせに」と、手痛い言葉が返ってくる。
「そんなに思い詰めて見えた?」
「見えたもなにも……」
エミルは呆れたように息をついてから、言葉を選ぶように一瞬沈黙する。
「――アーシャは昔から、悩んでも何も言わないだろ」
「え」
「天界ではその方がよかったかもしれない。でも今は違うんじゃないかって、思うけど。……姫様も、アーシャの仲間たちも、アーシャの感情に共感して寄り添ってくれるはずだって」
彼の言葉に思わず目を瞬かせると、とつとつと言葉が返ってきた。天界では理解されなかった、アーシャ自身の心の内。自分に向けられた、理解できないと言いたげな眼差しを、アーシャはよく覚えている。
「……」
思ってみれば、それこそ――話すのが怖かったのだろうか。同じ目を向けられるのが。それとも、天界のことを否が応でも思い出すことになるのが。
「とりあえず……俺からも同じ言葉をかけることになるけど。今日は寝た方がいい。夜に考え事は向かない、っていうから」
「……そうだね」
それは天界では聞いたことのない言葉ではあるが、人間界に来てからはさんざん聞いた覚えがあった。理由は知らないけれど、確かに辺りが暗いと考えも暗くなりがちだ。――そういえばリティシアが悩みを打ち明けてくれたのも夜だった。今となっては遠い昔のような思い出だ。
「今日は、大人しく寝ておくよ」
「……姫様にもそう伝えておく。おやすみ」
小さく笑みを浮かべ、エミルは部屋を出ていった。閉まる扉に向かってアーシャは挨拶を返す。
「……明日。明日になったら」
襲い掛かってくる重い気持ちを、そう呟くことで振り払う。明日までは、考えても仕方がないのだ。
アーシャは燭台の灯りを消し、寝台に潜り込む。先程までは手を握ってくれる人がいたからだろうか。一人きりで眠りにつくのは、どうにも心細くてたまらなかった。




