目覚め (2)
「エリセ、天界に行ったって本当……?」
薬湯を持ってアーシャの部屋へと戻った3人に、最初に掛けられた言葉はそれだった。彼は寝台の上で上体だけ起こし、双子に支えられている。驚いたように見開かれたその眼を薬湯へと移し、彼は「本当なんだ……」という言葉を落とす。
「俺が怪我したから――」
「それ……は、確かにそうなのかもしれないけど。アーシャが悪いわけじゃないんだから。それに、人間が入ってきたってことでそんなに責められたりしなかったし。ただ……」
天界に対して、案の定いい反応を見せないアーシャ。そんな彼を諭そうとして、しかしエリセは言葉を濁した。
「ごめん……その、『この薬をアーシャに使うという確証がほしい』って言われて……話したの。アーシャのお兄さんのことも、リティシアのことも」
その言葉は、リティシアにとっては衝撃だった。とうとう、天界にも知られたのか。だが、その事実に彼女が打ちのめされるより早く、アーシャが言葉を返していた。
「あ、それでリティシアが悪く言われたとかじゃなきゃ、それ自体は構いやしないけど……」
その返事はあっさりとしたものだった。思わずリティシアが脱力するほどに。
「いい訳ないじゃないの……」
「アーシャはああですから」
思わず呟くと、自らの忠臣から苦笑が返ってくる。リティシアも苦笑するほかなかった。アーシャは気にしていない。その友人たるエミルも気にしていない。これではリティシアの空回りだ。とはいえ、気になるものは気になるのだが。
「じゃあ、それ以外は気にすることもなかったから、ね。とにかく、今は薬を飲まなきゃ。せっかくもらってきたんだから」
エリセの言葉で、アーシャは薬湯の入った器を受け取った。
「……苦いんだよね、これ」
「子供みたいなこと言ってないで、さっさと飲みなさい」
と思えば、そんなことを言ってみせる。リティシアの言葉に、アーシャは肩を竦めてみせる。おどけた態度だが、痛くないわけではないだろう。むしろ痛いからこそかもしれない。心配をかけないために明るく振る舞うことくらい、アーシャならやりかねないとリティシアは感じていた。
アーシャが椀に口をつけ、中身を飲み干す。それを誰もが見守った。即効性があるわけではないことは分かっていた。エミルの説明によれば、身体を魔力が巡るまで待たなければならないのだから。
「そんなに見られても困るよ」
困ったようにアーシャが声をあげても、誰も目線を外せずにいた。
「エミルまでさ……」
椀をシリルに返しながら、彼は昔馴染みに向かって眉を下げていた。そのまま数分、膠着状態が続き――アリスがふと言葉を紡いだ。
「あれ、何か、魔法を使ったときみたいな空気がする」
「ほんとだ。そんな感じ」
クリスの同意を得て、アリスは何度も頷く。双子は魔力の流れを感じ取ったのだろうか。ならば薬が効いてきたのかと、リティシアはアーシャの顔を見る。
「……少し、痛みが引いてきたかな」
笑ってみせるアーシャの顔は、少し赤みが戻ってきていた。エミルが近寄り、アーシャの翼の具合を見ている。包帯をほんの少しずらして様子を確認し、エミルは小さく息をついた。
「これなら、夜までには治りましょう」
その言葉を聞いた瞬間、リティシアはその場に座り込む。脚からすっかり力が抜けていた。
「よかった……」
半ば呆然とそう呟くと、エリセがそっと隣にひざまずき、肩を抱えてくれた。双子も寄ってきて、背中をさすってくれる。
「ごめんね、心配かけて」
アーシャの申し訳なさそうな声に、リティシアはただ首を振った。謝られる謂れはないのだ。
「謝らなくたっていいのよ。アーシャが悪いわけじゃないわ。――……アーシャ?」
笑いかけてみせようと顔を上げ、リティシアは思わず彼の名前を呼んだ。何かに迷っているような、難しい表情。
「うん……と、俺、多分言わなきゃならないことがあるんだと思って」
手指を組み合わせながら、彼は煮え切らない口調でそう零す。それに返ってきたのはシリルの声だった。
「それはまあ、聞きたいことも山ほどあるがな。でも、今は休め。手短に済む話でもないんだろう」
「でも」
「アーシャ、わたしも色々話したいことはあるし、きっと長くなっちゃうと思うんだ。明日の朝にしよう? 大切な話かもしれないけど、アーシャの体調も大切なんだよ」
どこか焦ったようなアーシャの声。それを今度はエリセが宥めた。それでもアーシャはどこか割り切れないようで、渋い顔をしている。
彼は何の話をしようとしているのだろうか。今回分かったことだが、アーシャについて仲間たちが知らないことは割と多い。そのことについて何か負い目を感じてしまったのだろうか、とリティシアは想像を巡らせる。ちょうど最近まで、自分がそういう立場だったのだから。
「またみんなに心配させることになっても嫌でしょう?」
「……分かった」
アーシャの人柄に訴えかける作戦をとるあたり、エリセも大分強かになった――とリティシアは苦笑する。もちろん、この場合はこれで正解なのだろう。でなければ、アーシャが無理をしようとするだろうから。話はいつでも聞けるのだ。
「じゃあ、今日はゆっくり休んでいろ。もう少し落ち着いたら食事を持ってくるから」
言葉と共に、シリルが部屋の扉を開けた。
「……わたし、ちょっと見回りに行ってくるね」
「あ、じゃあボクも」
「ワタシも行くー」
エリセが双子を引き連れ、我先にと部屋を出ていく。階段を駆け下りる足音を聞きながら、リティシアはゆっくり立ち上がった。
「じゃあ、あたしも――」
一歩踏み出そうとした瞬間、服の袖が引っ張られる感覚がする。思わず振り向くと、白い手がリティシアの袖を摘まむようにして引き留めていた。
「アーシャ?」
「……ここに、いてくれないかな」
珍しく弱々しい声。この1日で彼の意外な面をたくさん見たが――そんな声が、リティシアにはいちばん意外であるかもしれなかった。だが、怪我や病気をしたとき、人は弱気になるものだ。アーシャもきっとそんな気分なのだろう。
「……いいわ」
リティシアが寝台の足元に腰を下ろすと、彼の手は袖から離れた。リティシアはそんな彼の手を叩くように撫でてから、近くにいる堕天使を見遣った。
「エミルは……ここにしばらく残れるかしら。まだ、アーシャと全然話もできていないのだし」
「そう、ですね……」
「……父さまに言わずに出てこさせてしまったかしら」
迷うような声に、リティシアは首を傾げる。アンゼルムはエミルを信頼しているから、少し黙って出てきただけで怒りはしないだろう。しかし、もしそうであるならば、エミルの方は気にするはずだ。彼は真面目だし、そうした報告はきちんとしたがる性分だ。
「いえ、ファナに言伝を頼みましたから、それは大丈夫でしょう。しかし、残ってもよろしいのですか」
どうやら、彼はリティシアたちの都合を気にしていたらしい。それはそれで、真面目な彼らしいのだが。
「きっと大丈夫だと思うけれど、家主はシリルだから、確認するなら彼に聞いてちょうだい」
「承知いたしました」
リティシアに小さく一礼し、エミルは扉の取っ手に手を掛けた。
「アーシャ、また後で」
「うん、後でね」
天使たちが交わした言葉は短かった。そのままエミルは部屋を出て、扉は無機質な音とともに閉まる。部屋にはアーシャとリティシアだけが残された。




