白翼の誇り
ジークの言葉に驚いたのはアーシャも同じだったのだろうか。金色の瞳がのろのろと自分の方へと向くのを、リティシアは視界の端でとらえた。
エリセが肩を支えてくれる温かい感触にも、彼女は動けなかった。
「今なら黙っていてやれる。しかし、お前が人間界にいることを好ましく思わない者がいる以上、いつかお前に監査が入るだろう」
そうなったら誤魔化せないと、ジークは暗にそう言っている。
「――ばれたら堕天させられるって脅すつもり? 俺は堕天使にされたって別に構わない。天界に帰るくらいなら。……それくらい勝手にして」
「アーシャ! 何てことをっ」
ジークが反応するよりも早く、思わずリティシアは叫んでいた。いいんだ、とでも言うように、アーシャは首を静かに振る。
「魔族のために何故そこまで言う」
理解できない、というような眼差しで、ジークは彼の弟を一瞥する。
「……俺のためでもあるからだよ。ジークには分からないかもしれないけど――」
「ああ、分からない。……禍々しい血の色をした瞳を持つ一族など、気に掛けて何がアーシャのためになる」
アーシャの表情が固まるのを、リティシアは確かに見た。しかし、口を挟もうとするより早く、ジークが次の言葉を吐き出す。
「その女に何か言われたのか。それとも血でも吸われたか? 先ほど見えたが、お前の掌の傷は何だ? 刃物で切ったように見えるが何故切った。お前のためになることを、本当にその女がしたとそう言うか」
「……っ黙れよ! リティシアに失礼なことを口にするなっ!」
「アーシャ、駄目よ!」
魔族というだけでここまで言われるか、という感情よりも、アーシャを止めるべきだという考えが先行した。エリセの手を振り切って走り、抱き着くようにして彼を捕まえる。
アーシャが反射的にジークに伸ばしかけていた手を、めいっぱいの力で引き戻した。
「放して、リティシア! ジークが――兄が、君にひどいことを」
怒りに震えた声で、強張った体で、彼はリティシアから逃れようとする。
「あたしは平気よ、だから落ち着いてっ」
負けじと声を張り上げると、ようやくアーシャの身体の力が緩んだ。安堵の息をつき、リティシアはそっとアーシャを離す。
「――魔族が天使に触れるな」
その瞬間に聞こえた、地の底から響くような声。それと共に、光が爆ぜるような音が耳に飛び込んだ。
「っ、」
今度はリティシアが抱きすくめられる番だった。白で視界が埋め尽くされ、一瞬の後に鋭い音が響く。
アーシャが翼を広げ、ジークの攻撃から自分を守ってくれたのだと、リティシアは遅れて理解する。この前の事件で、彼も翼を痛めていたはずなのに。
「ジーク! リティシアが魔族ってだけで攻撃するなんて――」
「兄弟のことと思って見守ってはいたが、些細な理由で仲間に手を上げるのなら出て行ってくれ」
アーシャの抗議と、シリルの鋭い声が、ほぼ同時にジークへと向けられる。降りてこようとした双子を、エリセが必死に制止する声が遠くに聞こえた。
そんな中、リティシアはただアーシャにしがみついていた。まったくもって理解ができない。何が、天使としてのジークの怒りに触れたのか。それは、リティシアが魔族だからという事実だろう。
しかし、何故そうまで毛嫌いされるのだろう。何もしていないのに、どうして攻撃をされなければならないのだろうか。
何かが、おかしい。リティシアがいる場所が、魔界か人間界かという差はあるかもしれないが――同じように天使としての矜持を持った堕天使たちだって、これほどの攻撃性を持ってはいなかった。
彼らは、ただひっそりと堕天使たちだけで社会を構成し、魔族と関わらないように暮らしている。魔族との接触があっても、必要最低限の関わりを持った後は逃げるだけ。触れることがあったからといって、攻撃などしはしない。
それなのに、何故。思わず身震いしたリティシアを、アーシャは離さずに翼で覆ってくれていた。
「……お前は、純白の翼の誇りなどとうに捨ててしまっていたのか」
「元々、そんなもの持ってないってば……、少なくとも害のない人に攻撃魔法を向けるような誇りは」
「ならば、誇りの源たる翼も――天使の証も、お前には不要だ」
何を言っているの、というアーシャの言葉は途中で止まった。
ジークを家の外に出そうと近づいていたシリルがよろける。何があったのかは、シリル自身の背中でリティシアからは見えない。
しかし、ジークの手に何かが煌めいたことだけは見えた。
「何を――」
驚愕したような声を出しながらも、アーシャはそこで初めてリティシアから手を離した。まるで自分から遠ざけるように、肩を軽く押し出して。
ジークの手にあったはずの煌めきが宙を舞い――次の瞬間、空中に赤が舞った。
「……っ、あ――」
せり上がってくる悲鳴を押さえるように、リティシアは口に手を当てる。
「……。もしアーシャの気が変われば、また来る」
そう言い残してジークが出ていったのを、気にする暇さえなかった。
「……、っく、――あ」
呻くような声でその場にうずくまるアーシャの右翼、その根元から、短剣が生えていた。
「――アーシャっ!!」
悲鳴とも泣き声ともつかない声を張り上げ、リティシアは再び彼へと駆け寄る。真っ白な彼の翼は、既に半分が真紅へと色を変えていた。
「何て、ことを――」
息を呑み向かってくるシリルの足取りは、どこか覚束ない。もしかしたら、先ほどシリルがよろけたのは――不意を突いて感電させられたからなのだろうか。
「おい、アーシャ。アーシャ、しっかりしろっ」
「アーシャ!?」
何とか双子を落ち着かせて戻ってきたらしいエリセも、悲鳴を上げる。
「大、丈夫、だよ……さすがに死にはしない、はずだから……まともに刺さっちゃったのは、運が悪かったかな……」
仲間たちを安心させようとしているのか、こんなときでもアーシャは笑顔だった。苦しそうに眉を寄せ、左手で右翼を押さえながら。
その表情が、ますますリティシアの怒りを大きくする。
「――何で、なんでよ、なんでこんなことができるのよ! 天使の言う秩序って何なのよっ!」
アーシャを寄りかからせるように抱き寄せ、彼の左肩に顔を埋める。
「――俺が、兄さんの中の……天使の範疇から、外れちゃったから。堕天使と同じように……ジークの中では、罰が必要、だったから、だよ、きっとね」
でも、理解できなくていいんだよ。俺だって理解できてないんだから。
その言葉と共に、どんどんとアーシャの体重がリティシアに圧し掛かってくる。自分の体重を支える余裕が彼にないのだ。
「シリル、止血しなきゃ……っ」
「分かってる。でも、まずはこれを抜くしか――」
エリセとシリルの会話の内容が頭に入ってこない。
「アーシャ、アーシャ、しっかりしてっ――」
ただでさえ白っぽい彼の顔色が、どんどん血の気を失っていく。
アーシャは目を閉じて荒く息をしている。
「アーシャ、ごめんなさい、あたしが近寄らなければ――」
その後は、言葉にすることができなかった。




